シリーズ 熊本偉人伝 Vol.28
まつもと きさぶろう
松本 喜三郎

幕末から明治時代にかけて一斉を風靡した稀代の生人形師

松本喜三郎生没年
1825(文政8年)2月 〜 1891(明治24年)4月30日没(享年67才)

リアリズムの時代をけん引した造形美術の祖

憂いを帯びた瞳、今にも喋り出しそうな口元、一本一本植えられた髪の毛、生気を帯びた肌質。幕末に登場した「生(活)人形」は、等身大の人物を動作や表情の細部に至るまで再現した、写実的な人形細工のことである。 江戸時代初期から各種人形細工の見世物興行が生まれたが、その頃は仏像のような偶像的な存在を様式的に形にしたものしか無かった。しかし、江戸末期に入るとまるで本当に生きているかのような生人形の見世物が台頭しはじめる。 生人形は人間の表情、動作の一瞬、細部を固定しそのまま精密に造形する、という本当の写実主義がない時代にリアリズムへの感心を高めていた人々はたちまちその魅力に憑りつかれ熱狂した。 その波の中心にいた人物こそが、熊本生まれの天才人形師・松本喜三郎である。

幼少期から培われた生人形師としての素質

喜三郎は文政8年(1825)、熊本の井手ノ口町(現在の熊本市中央区迎町)で生まれ、幼い頃から手先が器用だった喜三郎は、14~15歳で職人町の鞘師(刀の鞘を作る職人)に弟子入りし、塗りや錺りの技術を習得したという。 また、細川家のお抱え絵師であった矢野良敬の元で画力を磨き、少しずつ生人形師としての基礎を築いていった。
その頃町で盛んだったのが、地蔵祭で登場する造り物。中でも長六橋以南の迎町(現在の熊本市中央区迎町)と井出ノ口町は造り物の本場と言われ、喜三郎も井出ノ口町で大いに腕を振るっていた。 喜三郎が22歳の頃、近所のお秋という人物をモデルにして本人そっくりに人形を造り上げた。爪の長さまで測ったというこの人形が生人形の始まりだと言われており、代継宮(当時は熊本市花畑町、現在は熊本市北区龍田)の春祭りで、お秋本人と造った人形が並んで登場した時にはあまりにも瓜二つで誰もが度肝を抜いたという。

リアルで写実的な作風とこだわりの技法

熊本で腕を磨いていた喜三郎。彼の作風の特徴といえば、なんといっても徹底した写実主義と透けるような肌の美しさである。 まずモデルの顔をスケッチし、頭部と顔面を桐材で刻む。それを二つに割りガラスの眼球を内面にはめ、再び合わせる。 これに紙を貼って顔料を塗り、頭髪や眉毛、まつ毛を1本ずつ手で植え付ける。顔や手は、精密に彫刻された桐材に顔料や瑚粉を何度も吹き付けるなど、その造り方は気の遠くなるような手順だ。 特に肌造りにはこだわりを持ち、人の肌に限りなく近い自然さを備えた人間の肉色が出た「生きた肌」を追求した。その肌造りだけは最後まで弟子にさえも造り方を教えなかったという。 また、人形の髪型や衣装にも入念な時代考証を欠かさず、髪結から衣装の図柄のデザイン、仕立てまで全て自らの手で行った。

地方の人形師を脱し大坂・江戸へ進出

自分の腕を都会で試したいと考えた喜三郎は、24歳の時に熊本に妻子を残し大坂へ上る。到着した頃には無一文になった為、蝶型のかんざしを作って売りに出したところ、たちまち評判を呼び飛ぶように売れて喜三郎の懐は瞬く間に膨らんだ。 滞在の足掛かりとなる資金もでき生人形を造る機会を待ち望んだ数年後、ついに安政元年(1854)、大坂難波新地で「鎮西八郎嶋回り」を発表。これが空前の大当たりとなり、念願の江戸進出への足がかりを作る。
この時、当時、江戸浅草で興行を取り仕切っていた新門辰五郎に喜三郎は自身が造った人形を数体送っている。このことがのちの喜三郎の運命を大きくかえるものとなるとは喜三郎も思っていなかったであろう。 さて、この荷物は、辰五郎からは田舎者のレッテルを貼られ荷ほどきもされずに放置されたままだった。しかし、ある時、明春の初興行に何を入れたものかと考えていた辰五郎がふと喜三郎の人形を思い出して荷を開く。 開いた瞬間、その見事な出来映えの人形に大変驚き、見るや否や、喜三郎に上京をうながした。翌年には江戸浅草奥山で、「活人形元祖肥後熊本産松本喜三郎一座」と掲げた興行を行い、この興行で「活(生)人形」の名前が初めて付けられた。 肌もあらわな長崎丸山遊女の湯あみ風景など見た事のない生人形興行は連日押すな押すなの大成功を納め、その高い人気ぶりは浮世絵になったほど。肥後の喜三郎の名は瞬く間に全国へと広がるのである。 その後、安政4年(1859)に大坂難波、万延元年(1860)には江戸浅草で「浮世見立四八曲」を開帳。明治4年(1871)には代表作となる「西国三十三ヶ所観音霊験記」は、観音の化身33体、人物130体に及ぶ大掛かりなもので、5年間という、 江戸浅草で当時異例の期間となる長期興行となった。
そして、明治5年(1872)には大学東校(東京大学医学部の前身)の依頼で、日本初の人体模型を製作することに。この人体模型を造るにあたり、リアリズムを追求する喜三郎は、幾度となく人体解剖にも立ち会い、その眼に焼き付け、内臓の色や形などリアルなものが出来上がった。

東京から地方巡行を経て、故郷熊本へ

江戸・東京で生人形師として名声を得て永らくの東京生活にも飽きがきた喜三郎はついに東京から引き上げる決心をする。明治12年(1879)からは自身最大の自信作「西国三十三ヶ所観音霊験記」を引っ提げ、北陸地方を回って大阪まで巡業。 同15年(1882)には待ちに待った熊本の地で凱旋興行を60日間行い、そのまま熊本へと戻り、同18年(1885)には熊本本妙寺(熊本市西区花園)大遠忌に明十橋(熊本市中央区新町)の際で「本朝孝子伝」を興行する。
帰郷した喜三郎は晩年まで様々なものを造り続けおり、明治24年(1891)に67歳で亡くなるまで、その生涯で造り上げた人形は数百体以上に及ぶと言われている。ただ、現在熊本に現存する遺作品はわずか10数点。 もともと見世物で造られた人形であるが故に残されておらず、また作品のほとんどは戦火のため焼失したのである。 熊本に残るものとしては、代表作となる「西国三十三ヶ所観音霊験記」の興行で登場した「谷汲観音像」が松本家の菩提寺である浄国寺(熊本市北区高平)で観音像として崇められており、 熊本県指定重要文化財でもあるこの観音像は人形とは思えない崇高さをたたえた喜三郎傑作の一つである。また、高さ110㎝の「聖観世音菩薩像」は喜三郎が熊本へ帰郷後に観音像として寄進するために造られた像で、来迎院(熊本市西区春日)に現存する。 当時、生人形のリアルさは国外にも名をとどろかせ、アメリカのスミソニアン博物館で保存状態の良い作品が所蔵されるなど海外でもその人気をうかがい知ることができる。

時代の変遷と共に改めて見直される喜三郎の評価

現在では見られない生人形の興行は、昭和期まで浅草花屋敷の見せ物として存続していた。その他展覧会や呉服店の陳列などにも利用されたが、マネキン人形の登場により次第に代替わりしていき時代とともになくなっていくのである。
喜三郎の独創性に満ちた迫真の写実は、幕末から明治初期の激動の変換期を生きる市井の人々にとって燦然と輝く民衆芸術として君臨。人形師としての生人形への情熱は、人々の諸相を様々な主題にのせて忠実に映し出すことに注がれた。 今こそ、熊本が生んだ誇り高き名匠の名を、胸に刻みたい。

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