シリーズ 熊本偉人伝 Vol.32  ( 旅ムック103 )
きむら まさひこ
木村 政彦

「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」史上最強と称された不世出の柔道家

大正6年9月10日生誕〜平成5年4月18日没 享年75才

世界に知られる 川尻出身の柔道の神様

 身長170センチ、体重85キロと、柔道家としては決して恵まれたとはいえない体格ながら、亡くなって20年以上経った今も「史上最強の柔道家」と称される木村政彦。全日本選手権13年連続保持にして、昭和11年からプロに転向する昭和25年までの15年間、不敗のまま引退した伝説の柔道家である。常軌を逸する膨大な練習量、破壊的でキレのある技術力と瞬発力、そして何より強靭な精神力。心・技・体を併せ持つ彼の異名は「鬼の木村」である。 木村は大正6年9月10日、刃物で有名な川尻町で生まれた4人兄弟の末っ子。家業の砂利採りや砂利上げを手伝ううちに次第と腰と腕力が強くなり、のちに柔道に必要な脇を締める力を身に付けていたという。 また、後世に名を残すとは思いもよらず、柔道をはじめたきっかけがおもしろい。当時の担任教師に怒られ投げられた事に対し復讐を果たすため、その先生が柔道初段であれば自分が二段になれば投げ飛ばせると考え、柔術の町道場に通ったというのも小学生とは思えない行動だ。頑固で気骨のある気質、いわゆる「肥後もっこす」だった木村は、一日も練習を休むことなく技を磨いた。

「熊本の怪童」となるきっかけ 「鬼の牛島」との出会い

 転機が訪れたのは昭和6年尋常高等小学校2年の時。全九州相撲大会を準優勝、県児童相撲大会で見事優勝した木村は旧制鎮西中学(現:鎮西高校)の柔道教師・小川信雄にスカウトされる。1日5時間以上の練習を行った木村は、入学後すぐに次々と勝利を決め一気に段位を上げていき、3年生の頃には団体戦の大将の座にいたが、それは全国の中学生の中でも最強を意味していた。 その後、拓殖大学に入学し旧制鎮西中学のOBでもある牛島辰熊の元で鍛えられる。この頃の木村の練習量は1日10時間といわれ、睡眠時間を削り、寝ている間でさえイメージトレーニングを行っていたとも。豊富な練習量に加え、精神的にも強く、柔道で負けたら切腹する覚悟で試合に臨んだという木村。得意技は、本来は長身選手が得意とする大外刈り、寝技であれば腕緘(通称キムラロック)。どちらの技も強烈で失神者や脱臼者が続出したため、ついには技を禁じられた。 順調に柔道家としてのキャリアを積んでいたが、昭和25年に師匠の牛島が旗揚げした国際柔道協会「プロ柔道」に参加。しかし、客足は次第に遠のきスポンサーの経営不振も重なっていく。

プロレス界への転向 力道山との対戦からの転機

 この頃、妻が病気となり多額の治療費が必要となった木村は、意を決して「プロ柔道」を脱退しプロレス入りを決める。当時の英雄・力道山とタッグを組み、次々と名勝負を展開するも、毎回引き立て役であることに不満を募らせていた木村。ある日「真剣勝負なら(力道山に)負けない」と発言したことで力道山の怒りを買う。俗にいう「昭和の巌流島」と呼ばれる直接対決が行われることになった。 結果はあっという間の木村のKO負け。これを機に一線を退くこととなった。後の木村側の証言では「本来は勝敗が決まったプロレスで、両者が勝負を繰り返しながら各地を転戦する予定が、力道山がその約束を反故にし殴りかかってきた」と言っている。この敗戦はプロレスを甘く見た油断負けとも、力道山のだまし討ちともいわれているが、真相は謎のままだ。両者は、後に和解が成立している。 その後、海外放浪していた木村は昭和36年に拓殖大学柔道部監督として柔道界に復帰。その数年後に全日本学生柔道大会において見事優勝に導き、後の一番弟子となる岩釣兼生らを育てた。平成5年4月18日死去、享年75歳。最後は肺癌と戦い、この世を去った。

木村政彦生誕100年を記念して 地元・川尻が盛り上がる

 平成29年、郷土川尻の偉人・木村政彦生誕100年を記念して、木村自身の言葉「三倍努力」のもと木村政彦と川尻の為に3倍力を注ごうと、地元住民で木村政彦生誕百年記念実行委員会を発足。技の名前にちなみ、ロックがうまい純米焼酎「キムラロック」と大吟醸「大外刈」を作成。さらに木村政彦直筆の「三倍努力」をTシャツにした。この言葉は相手が人の倍努力するならば自分は3倍努力すれば戦い抜けるという信念のもと練習に励んだ木村自身の言葉。 実行委員会会長は「是非、先生が育った川尻の地に来てゆかりの地を巡っていただき、川尻限定のお酒を手に入れて下さい」と木村政彦の顕彰に力を注いでいる。

取材協力/木村政彦生誕百年記念実行委員会
参考文献/木村政彦 わが柔道(木村政彦・著)
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか(増田俊也・著)

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