シリーズ 熊本偉人伝 Vol.8
なつめそうせき
夏目漱石

五高指導者として成長を続けながら、俳人・作家の一面を磨き上げた熊本時代

夏目漱石生没年
慶応3年1月5日(1867年2月9日)〜 大正5年12月9日(1916年12月9日)

熊本では6回。漱石の引っ越し魔の真相

第五高等学校の英語教師として、明治29年(1896)4月に熊本に赴任した夏目漱石。明治33年(1900)に文部省の派遣でロンドンに留学するまでの4年の間に6回も住居を変え、「引っ越し魔」という印象がある。
熊本に着いて最初に身を寄せたのが、大学時代の親友であり、松山中学、五高の職を紹介した五高教授の菅虎雄の家である。1ヶ月の居候生活の後には、第1の家となる「光琳寺の家」(現・熊本市下通)へ移り、この家で漱石は中根鏡子と式を挙げる。結婚式は自宅の離れで行われ、新郎新婦と新婦の父・中根重一、そして東京から来た女中や婆や、車夫が客になったり、台所で働いたり…簡素だがユニークな式となったそうだ。新婚生活を送った第1の家は、現在、ホテルサンルート熊本が立ち、入り口に漱石の顔のレリーフが飾られている。
次に住んだのが、「名月や13円の家に住む」と詠んだ第2の家「合羽町の家」(現・熊本市坪井)。光琳寺の家が家賃8円というから、13円の家賃は大きな負担になったのだろう。新築で部屋数も多かったため、同僚の長谷川貞一郎や山川信次郎が下宿し、長谷川は5円、山川は7円の下宿料を払っていたという。現在は取り壊され駐車場となっている。約1年間「合羽町の家」に住んだ後、漢詩人で天皇の侍従を務めた落合東郭の持ち家に移転。この第3の家は「大江(村)の家」と呼ばれ、水前寺成趣園に隣接するジェーンズ邸内に移築保存されている。家賃は7円50銭と前の家よりも安い。さらに、現在の熊本市新屋敷、白川小学校の裏手にあたり、桑畑に囲まれた静かな環境で気に入っていたと鏡子夫人も後に語っている。
住み心地のよかった「大江(村)の家」だが、家主である落合東郭が急きょ帰郷するため、第4の家「井川淵の家」へ。白川(一級河川)の際にあり、すぐ近くに明午橋が見えていたという。この仮住まいの家で、夫婦に大きな事件が起こる。熊本での慣れない生活や流産のために鏡子夫人はヒステリー症が激しくなり、白川に身を投げたのだ。幸い漁に出ていた漁夫に助けられたが、この出来事の直後、第5の家「内坪井の家」に移ることになる。現在では熊本市記念館「夏目漱石内坪井旧居」として公開される「内坪井の家」では、長女・筆子が誕生。鏡子夫人が「熊本でもっともよかった家」と語り、約1年8ヶ月と最も長く住む家となった。
気味の悪い家、家主の急な帰住、高すぎる家賃など、5回の転居にはそれぞれにやむを得ない理由があった。しかし、安定した生活を送った内坪井の家から第6の家「北千反畑町の家」へ移る際の理由は分かっていない。熊本での最後の家は現在も住居として使われ、漱石が過ごした時代を静かに物語っている。

阿蘇へ「二百十日」の旅

明治30年(1897)に「草枕」の題材となった小天温泉へも同行した山川信次郎とともに、明治32年(1899)8月末から9月はじめにかけて阿蘇旅行に出掛ける。山川が第一高等学校(新制東京大学教養学部の前身となった旧制高等学校)へ転出することになり、その送別を兼ねた旅行だった。
漱石の旅程は、南阿蘇村にあった戸下温泉に寄り、内牧温泉の養神亭(現・ホテル山王閣)の2階へ1泊。翌日、阿蘇神社に詣で、現在の仙酔峡道路を通り高岳登山。その体験が、明治39年(1906)に発表された小説「二百十日」の材料となった。東京から来た2人の男、「圭さん」と「碌さん」が、内牧温泉に泊まり、翌日阿蘇神社に参拝し、火口を見るために阿蘇中岳を登る。しかし、その日はちょうど二百十日。嵐にあって道に迷い、ようやく麓の馬車宿にたどり着き、再び山頂を目指す。個性豊かな主人公二人のリズミカルなやりとりに、朴訥とした田舎宿の女中との掛け合いがユーモラスなこの作品は、初期短編の代表作だと言われている。
「温泉の湧く谷の底より初嵐(戸下温泉)」、「湯槽から四方を見るや稲の花(内牧温泉)」、「朝寒み白木の宮に詣でけり(阿蘇神社)」、「灰に濡れて立つや薄と萩の中」、「行けど萩行けど薄の原広し」など、この旅で漱石が詠んだ29の句が、正岡子規へ宛てた手紙に書き添えられている。

熊本で開化した、俳人・漱石の世界

漱石が小説を書き始めるのは、イギリスから帰国後、明治38年(1905)に「吾輩は猫である」を発表してから。熊本時代は俳句に熱中し、生涯詠んだ約2400句のうち約1000句は五高在任中に詠まれている。同窓生であり親友であった正岡子規の影響を受けて俳句をはじめ、子規に送った書簡にも多くの俳句が記され、中には添削を依頼することもあった。
漱石の俳句は、熊本の自然を詠んだもの、旅先で作ったもの、子どもの誕生など日々の生活を詠んだものなど多岐にわたり、熊本にも多くの句碑が造られている。また、五高の学生達を集めて運座(句会)を開き、近代俳句の会「紫瞑吟社」を結成。この結社は、漱石が東京に移っても活動が続いたが、次第に廃れていったらしい。

小説の中にも垣間見る、漱石が感じた熊本

明治33年(1900)、文部省よりイギリス留学を命じられた漱石は、鏡子夫人と2歳になった娘・筆子を連れて7月に熊本を去る。  漱石が感じた熊本の印象はどうだったのだろう。明治41年(1908)2月9日に掲載された「九州日日新聞」のインタビューで、熊本の思い出を語っている。
「水前寺と江津湖は、水がきれいで魚がいた。すこぶる気に入った」「白川の一筋が田んぼをつらぬき、薄紫色の山が遠くに見える。阿蘇の山々を噴煙がはい回る絶景、実に美観」と熊本の自然を絶賛している。熊本人について聞かれると「熊本には長くいても熊本人士との交際はあまりなかった」と語る一方で、買い物をしているうちに雨が降り出し、見ず知らずの人が傘を貸してくれ「熊本人の親切には驚いた。そんなことは東京ではない」と語っている。
同僚や教え子が東京へ戻るのを見送りながら、漱石自身も東京へ早く戻りたいと周囲に語っていたそうだ。しかしそれは、熊本が気に入らなくてというより、文学で立ちたいという思いが強かったため。「吾輩は猫である」や「三四郎」に熊本時代に出会った風景や人物のモチーフを使っているのだから、漱石にとって熊本は愛すべき土地と言ってもいいだろう。

取材協力/夏目漱石内坪井旧居

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