熊本のもう一人の剣豪

 武蔵より40年余り早く生まれた丸目蔵人佐長恵(まるめ・くらんどのすけ・ながよし)は熊本・人吉の人である。天草・本渡城の天草伊豆守から中条流を学び、京に上って上泉伊勢守信綱(かみいずみ・いせのかみ・のぶつな)の門下となって修行を積み、信綱が将軍足利義輝(あしかが・よしてる)の前で新陰流の演武を上覧したときは打太刀をつとめるまでになり、将軍の感状を与えられる。
 その後も武者修行の諸国遍歴を続け、信綱からは「殺人剣太刀・活人剣太刀」の免許を与えられる。その際、師の信綱から特に活人剣はむやみに人に教えてはならないという制限がつけられていたという。蔵人佐は、故郷に帰り人吉城を居城とする相良藩の兵法指南役として出仕したが、後に信綱が亡くなったことを知って大いに失望し、流名をタイ捨流にしたと言われる。
 タイ捨流のタイとは、大、太、体、待などの意味を持ち、これを捨てた自在の構えを旨とするといわれている。(地元在住の郷土史家、渋谷敦氏より)
 蔵人佐は、修行を怠ることなく諸国遍歴を続け、槍・長刀・居合・手裏剣など多くの奥義を極めたといわれている。薩摩示現流の東郷藤兵衛重位(とうごう・とうびょうえ・しげかた)も当初タイ捨流を学んでいる。タイ捨流は、地元をはじめ宮崎方面にもひろがり、今も受け継がれている。



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