殿の逝去と阿部一族の騒動

 ところが「兵法三十五箇条」を呈上した翌年、細川忠利公は逝去してしまう。五十四万石の大藩の藩主、柳生新陰流の奥義を極めながら「二天一流」の門弟となり、連歌・書画・茶の湯・工芸に通じた文化人でもあった、忠利公の逝去は、最晩年の武蔵にとってはかりがたい衝撃で、武蔵は失意に沈んだはずである。  忠利公の逝去に伴い、23歳の嫡子、細川光尚(みつなお)公が新藩主となる。前藩主の側近や特に引き立てられた藩士は、殉死か引退が当時の武士の慣習で、客分として肥後に居を構えた武蔵も引き上げを考えたかもしれない。しかし、新藩主が引き留めたことにより武蔵は肥後に留まったとみられている。
 この頃、殉死者の取り扱いの不満から、阿部一族が屋敷に立てこもり、ついには誅伐される騒動が起こる。森鴎外がこの血の惨劇を取材して小説「阿部一族」にしたもので、いたずらに犠牲者をだした事件だった。武蔵は、泰平の世に生きる武士の日頃の鍛錬不足を思っていたかもしれない。





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