兵法指南役

 江戸時代に徳川将軍家の兵法指南役となった、柳生但馬守宗矩(やぎゅう・たじまのかみ・むねのり)の柳生新陰流は将軍家の威光を背景に全国にひろがり隆盛を極めた。柳生新陰流の源流は愛洲移香斎久忠(あいす・いこうさい・ひさただ)の陰流である。久忠が宮崎・鵜戸神宮の岩屋で修行中、猿の姿をした神が現れて剣法の奥義を示したとされている。「陰」とは目に見えない心の動きのことを指す。
 この陰流からは、日本一の剣聖といわれる上泉伊勢守信綱(かみいずみ・いせのかみ・のぶつな)が出て新陰流を大成する。信綱の弟子には、疋田陰流を興した疋田豊五郎(ひきた・ぶんごろう)、タイ捨流を興した丸目蔵人佐長恵(まるめ・くらんどのすけ・ながよし)、柳生新陰流を興した柳生石舟斎宗厳(やぎゅう・せきしゅうさい・むねよし)などの剣豪が世に出る。
 一刀流を大成した伊藤一刀斎(いとう・いっとうさい)の門流からは、柳生但馬守宗矩とともに将軍家の兵法指南役となる小野次郎右衛門忠明(おの・じろうえもん・ただあき)が出て、多くの分派を生む。
 宮本武蔵は晩年、54万石の大藩肥後細川家の兵法指南役となり、武蔵の「二天一流」の門下には、藩主の忠利公以下、家老となる長岡(松井)式部寄之(よりゆき)、沢村宇右衛門友好(ともよし)、正統な継承者となる寺尾孫之丞勝信(かつのぶ)と寺尾求馬助信行(のぶゆき)の兄弟はじめ、多くの藩士が門弟となった。そして武蔵の「二天一流」は現在も熊本に受け継がれている。




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