隠居の細川三斎(忠興)公とともに八代城を預かった長岡(松井)興長は、武蔵の父、新免無二斎の門人で、豊前細川藩時代には巌流島での武蔵と小次郎の決闘実現に関わり、後に肥後細川藩では武蔵を兵法指南役に招くために尽力した。
興長の養嗣子で細川忠利公の実弟の寄之は、「二天一流」の門人となり、忠利公逝去後も支援した。
旧八代城主であった松井家には武蔵ゆかりの遺墨・遺品や貴重な資料が今も残っており、武蔵との関わりの深さを感じさせる。
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松井家の菩提寺、春光寺(八代市)には、武蔵の自筆からとった白楽天の言葉「戦気 寒流帯月澄如鏡」の石碑が建つ。寒流を二天一流に例え、鏡のごとく澄んだ自分の戦気に周囲の動きを映しだせ、と説いた。
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