撮影/炭谷健一
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戦国の世から泰平の世へ
厳流島の決闘以降の世の中は、徳川の体制が強化され泰平の世に移行する時代であった。13歳頃から武者修行を続けた若き武蔵は、17歳で関ヶ原の合戦に参戦、その後諸国を廻りながら武者修行を続け、足利家の兵法指南役、吉岡清十郎との決闘で名をあげ、巌流島の決闘まで60回以上の決闘を続け無敗であったという。
大阪夏の陣でついに大阪城が落城、徳川幕府は、その後有力大名を次々と取り潰し、鎖国政策をとり、キリスト教を禁止した。31歳の武蔵は、すでに高名となっており、大阪夏の陣では徳川方についていたとみられている。
豊臣家の滅亡により、ついに戦国時代は終わりを告げた。戦国時代、特に関ヶ原の合戦以後、全国に増加した浪人は剣で身を立てようと武者修行を続け、高名な剣士との戦いに勝って名を高め、弟子をとりおのれの剣の流派の拡大をはかった。しかし、大きな戦はなくなり、剣のみで身を立てる時代が終わった。浪人にとっては仕官の道が遠くなり、藩士にとっては剣の腕を磨く意義が薄れることとなった。
後に起こった天草・島原の乱では、16歳の天草四郎時貞を総大将とする切支丹軍に対して、当初幕府方は敗北、ついには乱を平定したものの大きな損害を被った。この戦いに中津城主、小笠原長次公の本陣に配されて参戦した武蔵は、若い藩士たちの実戦経験の乏しさと日頃の鍛錬の怠りを痛感したとみられている。
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