細川忠利公像/水前寺成趣園内
 
肥後細川藩の兵法指南役へ

 天草・島原の乱に大軍で出陣した肥後五十四万石の細川忠利公も、おそらくは、泰平の世にふさわしい武士のあり方を求めていたと考えられる。
 肥後の細川忠利公と肥前の小笠原忠真公は姻戚関係にあって、細川藩の家老で武蔵とは旧知の間柄である長岡(松井)興長は、島原の小笠原藩陣中の武蔵へ陣中見舞いとして使者を遣わしている。この2年後に武蔵が興長宛に書いた手紙が機縁となり、細川藩への武蔵招聘が実現した。
 加藤家取りつぶしの後をうけ大国、肥後の藩主となった細川忠利公は、千利休の高弟、忠興(三斎)公を父に、ガラシャ夫人を母にもち、剣では柳生新陰流の達人でありながら、連歌・書画・茶の湯・工芸に通じた文化人でもあった。諸国の事情に詳しい武蔵に対しては、剣術指南役としてだけでなく、治国の面でも相談役としての期待を秘めていたはずである。





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