武蔵は「五輪書・地の巻」で自分の剣法を「二天一流」と名付けた。上は形への囚われを戒めた武蔵の「五方の形」とされる基本形である。
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二天一流の普及
秘密の御前試合以後、武蔵の「二天一流」は肥後細川藩をあげて修行に励まれるようになった。藩主忠利公、家老となる長岡(松井)式部寄之(よりゆき)、沢村宇右衛門友好(ともよし)、「二天一流」の正統な継承者となる寺尾孫之丞勝信(かつのぶ)と寺尾求馬助信行(のぶゆき)の兄弟はじめ、多くの藩士が門弟となり、その数が一説には千人以上ともいわれた。
この頃武蔵は、藩主忠利公に「兵法三十五箇条」を呈上する。柳生但馬守宗矩(むねのり)から「兵法家伝書」を授与され柳生新陰流の奥義に達している忠利公を意識し、他流からみて武蔵の剣法はどうなのか、武蔵はおそらく自らの兵法の集大成を目指して「兵法三十五箇条」をまとめたと見られる。
独自の二刀流の極意、1人に対する兵法を千人に対する兵法に応用できる点ほか、場面に応じた戦い方の全体像が分かるように述べている。そして三十五箇条の後、最後の三十六箇条目には「万里一空」として、「すべての道理はただ空に帰する。この点は書きあらわしにくいので、自ら工夫なさってください」とだけ書いて締めくくり、本来、三十六箇条となるところを三十五箇条としている。この空の思想は後に著す「五輪書」の「空の巻」で展開される。
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