西南戦争の舞台、田原坂
12月16日最終回を迎えたNHK大河ドラマ「西郷どん」はみなさんご覧になられましたか?
最終回の前の12月9日の放送では、西郷隆盛が明治政府に問うため東上し、一方の明治政府は西郷隆盛を賊とみなし討伐するという、日本近代史において最大にして最後の内乱「西南戦争(西南の役)」が描かれていました。その西南戦争激戦地である「田原坂」は現在の熊本県熊本市北区植木町にあります。
県道31号線から入る田原坂の入り口
熊本鎮台と官軍
当時、全国には6つの鎮台(地方の警護にあたる陸軍が駐在した所)が配設されていましたが、九州地方は熊本にありました。その熊本鎮台司令長官である
谷干城(たにたてき)は薩摩軍を迎え撃つ為、駐屯している熊本城の籠城を決意します。
薩摩軍を鎮圧するために明治政府は全国各地から武器・船・人を集め九州に向かわせます。一方、薩摩軍には明治政府に対して不満を募らせていた各地の士族(武士)たちが参加していきます。これは西郷隆盛が鹿児島を発ち中央へ向かう話が瞬く間に広がって日本刀を差し血気盛んな姿を目の当たりにしたのもあり、薩摩勢たちとは違う自分たち独自の志を掲げ次々と加わっていくのです。
田原坂はこんなところ。
田原坂公園からの眺望
その西南戦争の三大激戦地として名が挙がる「田原坂」「横平山」「吉次峠」がある植木・玉東エリアは、江戸時代より豊前街道・三池往還・吉次往還が通っていました。政府軍は博多に本陣を置き、北上する薩摩軍の鎮圧と熊本城への援軍を向かわせるにはこの3つのルートを通る必要がありました。
ちなみに、田原坂は熊本城を築城した加藤清正が作ったともいわれています。
※豊前街道→熊本を起点として植木、山鹿、南関を経て豊前・小倉に行く道
※三池往還→植木より田原坂、玉東、玉名市高瀬を経て大牟田へ繋がるもう一つの豊前街道
※吉次往還→熊本城下から玉名市高瀬に抜ける道。途中に吉次峠がある
田原坂は一の坂、二の坂、三の坂と続きますが、この坂は何箇所も蛇行した地形に加え、道の両側が高くなっている所は隠れながら通る敵を攻撃できる利点があり、薩摩軍からすると守りやすく、政府軍からすると攻めにくい自然の要害でした。
資料館に展示してある大砲。
熊本の民謡にこんなうたがあります。
「雨は降る降る じんば(人馬/陣羽)はぬれる こすにこされぬ 田原坂」
これは攻撃があまりにも激しくなかなか突破できない心境を詠んでいます。
七本柿木台場薩軍墓地の地面
政府軍がなぜなかなか突破できなかったかというと、薩摩軍は士族(武士)で構成され、政府軍は陸軍・海軍の他に徴兵制の導入で農民などが兵士として訓練を受けて参加している点が挙げられます。銃があったとはいえ、士族は刀の扱いになれており接近戦では勝るのです。政府軍もつぎつぎと援軍を送りますが押されている戦況を打破しようと、日本刀の扱いになれた選抜軍士の警視抜刀隊を結成し田原坂に送り込みます。すると一気に形勢は逆転し、薩摩軍はどんどん後退・退却し17日間昼夜にわたり繰り広げられた田原坂の戦いが終わりました。
次第に鎮圧されていった薩摩軍は徐々に鹿児島に追い詰められ、日本近代史において最大にして最後の内乱は西郷隆盛の自決により終結しました。
この戦いにおいて各地住民は政府軍に味方する人、政府軍に隠れて薩摩軍に味方する人など巻き込まれながらも両者ともに食料や物資などを提供し、この中で日本赤十字活動が生まれました。
その時に博愛慈善の精神で活動した「熊本の赤ひげ先生」と呼ばれた「八世・
鳩野宗巴」のお話はこちらです。
鳩野宗巴【前編】
鳩野宗巴【後編】
弾痕の家
弾痕の家(復元)
両軍の銃弾を浴びて無数の弾痕が残る土蔵造りの白壁。
中には西南戦争関連の資料が展示してあり見学は無料。
(熊本市田原坂西南戦争資料館横)
田原坂を上った先には田原坂公園があり、田原坂の戦いを始めとした西南戦争に関する資料などは熊本市田原坂西南戦争資料館にて展示中です。
資料館入口横には政府軍のコスプレや銃などで写真が撮れる所もあります。無料です!!
大楠もあります。
熊本鎮台司令官・谷干城はなぜ熊本城で籠城を決意しようとしたか?
詳しくは
熊本偉人伝「谷干城」ページにて解き明かします!!