シリーズ 熊本偉人伝 Vol.35  ( 旅ムック105 )
たにたてき
谷 干城

激動の幕末、薩摩軍の猛攻から熊本城を守城した鎮台司令長官

1837年(天保8年)2月12日生誕〜1911年(明治44年)5月13日没 享年75

新政府誕生で続発する士族の反乱を鎮めた指揮官

江戸から明治へ移行する激動の時代、新政府に対する士族の不満から各地で反乱が起きていた。佐賀の乱に始まり、熊本の神風連の乱、福岡の秋月の乱、山口の萩の乱と続く。だがこれらの反乱は、やがて日本最後の内乱と呼ばれる西南戦争の序章に過ぎなかった。 その頃、政府から要注意人物と見られていた西郷隆盛は、自身の暗殺計画について政府に問うため、明治10年(1877)2月に挙兵。熊本城を包囲し攻撃を仕掛ける。その情報を事前に掴み、籠城作戦にて薩摩軍から熊本城を守ったのが、政府軍の熊本鎮台司令長官の谷干城である。

谷干城、その人となりと政府軍としての才能の開花

干城は天保8年(1837)、土佐高岡郡窪川にて藩士の父・景井(万七)と母・伊久の間に生まれた。幼名は申太郎で、元服後に干城となる。城を守る干(楯)を名乗るとは、何かの因縁であろうか。 幼い頃は、学問は好まず武術に励んだという干城。弓述や剣術、砲術と多岐にわたった。だが、欧米列強の進出や土佐を襲った天災を機に、藩政の引き締めが強化されると、干城もまた他の藩士の子弟同様、学問に目覚めていく。その勉強ぶりが評判を呼び、安政3年(1856)には江戸へ呼ばれ、勉学に勤しむかたわら、御用を勤めるほどにまでなった。 残された彼の日記を見ると律儀で几帳面な性格が反映されており、反面、血の気の多い短気者でもあったようで、後年、大隈重信は彼のことを「熱烈な感情家」と評している。また、涙もろい人情家としてのエピソードも数知れず、家族が困惑するほどだった。 その干城に「私が最も恐れるのは天子と地震と我が妻」と言わしめるほど恐妻家だった妻のくま子とは、文久二年(1862)に結婚。しっかり者の彼女は、干城の良き相談相手として晩年まで寄り添った。西南戦争では干城とともに熊本城に籠り、傷を負った兵士たちの看護や食事の世話にあたったと言われている。 干城は明治元年に起きた戊辰戦争での活躍により政府軍での地位を徐々に上げていった。明治6年(1873)1月に徴兵令が公布されると、干城は主導者の山縣有朋陸軍大輔を支持。同年4月、有朋は徴兵制に反対する桐野利秋(薩摩出身、西南戦争時には西郷隆盛の腹心となる)を追い出し、代わりに干城を鎮台司令長官に据えた。全国に六つ配設されていたうちの一つ、熊本鎮台だった。 赴任した翌々月、福岡県下各地で徴兵令に反対する民衆6万数千名の暴動が起きたが、干城はおよそ半月をかけ、これを完全に鎮圧。その翌年には佐賀の乱の鎮定に関わり、台湾出兵にも参軍している。

名実ともに実証された難攻不落の名城・熊本城

その後、熊本鎮台の職を一旦は退いた干城。しかし、西南戦争前に熊本鎮台司令長官に再任され、中央を目指して鹿児島から攻め上ろうとする薩摩軍を熊本で見事に足止めした。日数にして52日。籠城作戦で熊本城を死守したのである。 その選択の背景には、前年に起きた神風連の乱で鎮台兵の士気が下がったままだったことで薩摩軍に寝返る者が現れる可能性があること、戦慣れした薩摩軍との実戦経験の差、加えて三倍強ある薩摩軍の兵力数に真っ向から対向しても勝てないと悟ったからである。加藤清正が作り上げた難攻不落の名城・熊本城に籠れば、味方の援軍を待つ間、必ず薩摩軍の攻撃からも守り通せるという自信もあったであろう。 しかし、薩摩軍が総攻撃する前に城内で原因不明の火災が起こり、食糧の大半を失うことになった。当時、城内には兵を中心に約三千人がいたが、その火災が返って兵の士気を上げたという。籠城が長引くにつれ次第に食糧が乏しくなると、死んだ馬の肉や野草を食べてしのぎ味方の援軍を待ったという。また、気がかりだった兵力の差だが、抜刀して接近戦になると刀の扱いに慣れた薩摩軍が有利であったが、鎮台兵は最新式のスナイドル銃や大砲、地雷で応戦し自分たちの強みを発揮していた。 こうして、薩摩軍の激しい攻撃に耐え忍びながら、遂に4月14日、政府軍の援軍が熊本城に入り攻囲は解かれた。政府軍は薩摩軍を追い詰めていき、鹿児島で西郷隆盛が自刃し西南戦争が終結。この戦いで徴兵の軍隊が士族の軍隊よりも優秀であること、軍事的な反乱が政府の軍隊を倒すことはできないことを証明したことになり、その後反乱を企てようとする者はいなかった。この西南戦争で熊本城が突破されて内乱が長引けば明治期の混乱、ひいては日本の方向性も違ったものとなっていたかもしれない。 干城は、戦争後に次のような歌を詠んでいる。「石なれと 固く守りし かひありて けさ日の御旗 見るぞうれしき」。干城を中心とした鎮台兵は、石のような硬さで、一丸となって熊本城を守り通したのである。

熊本城を救った男 谷干城(嶋岡晨著)
谷干城 憂国の明治人(小林和幸著)
西南戦争ガイドブック 植木・玉東(玉東町教育委員会発行)

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