シリーズ 熊本偉人伝 Vol.45  ( 旅ムック120 )
Leroy Lancing Janes
リロイ・ランシング・ジェーンズ

激動・肥後維新の真っ只中に赴任し熊本の産業振興に貢献したアメリカ人教師

1837年3月27日生誕〜1909年3月27日没 享年72

西洋文明と科学の使者として熊本への献身を誓った5年間

近代日本の礎となった明治維新の成立により、日本中が貪欲に西洋文化を吸収し急速に近代化を遂げた明治初頭。熊本も例外ではなく、九州で最初にお雇い外国人教師による本格的な洋学校を始動する。その教師として白羽の矢が立ったのがアメリカ人、L・L・ジェーンズである。 この熊本の地で様々な課題に挑み、乗り越え、激動の時代に身を置いた彼の5年間について触れてみたい。

不安を抱えながら家族とともに熊本へ

ジェーンズは、1837年にアメリカオハイオ州で生まれた。アメリカで最もハイレベルといわれた陸軍士官学校を卒業後、南北戦争に参加するなど軍人として活躍し、退役後は農業を営みながら生活する。そんな中、日本、それも熊本で洋学校の教師として招かれる話が持ち上がる。 悩んだ末に熊本行きを決め、彼が妻と二人の子と共に熊本の百貫港(現在の熊本市西区小島)に降り立ったのは明治4年(1871)9月のことである。大きな不安を抱えたまま右も左も分からない異国の地で、歓迎の宴で出された食事の粗悪さにジェーンズは衝撃を受けた。アメリカでの食事と全く違ったのである。いわく「いささか原始的で不衛生な当時の日本人の食生活の習慣」とは裏腹に、しきりに文明開化を口にする矛盾に戸惑いを覚えたという。また、大げさにも見える厳重な身辺警護も相まって、逆に彼の使命感に火がつき、西洋文明と科学の使者として、熊本への献身の決意を固めたのである。

すべて英語で行われた自学自習教育

熊本洋学校は、明治維新を機に藩校「時習館」と医学校「再春館」を廃止し、熊本出身の思想家・横井小楠の遺志を継いで洋学を学ぶことを目的に建てられた。500名ほどの志願者のうち、試験で入学を許されたのは50名弱で、そのほとんどがこれまで西洋人を見たこともない者ばかり。授業は通訳者を介して行う想定だったが、ジェーンズは選任された二人の語学力が低いのがわかると解任したという。彼の目から見たら物質的にも精神的にも貧しい生徒自身が英語を学び、直接西洋の知識と文明に触れることが真の熊本の文明開化だと考え、英語はもとより、数学、地理、歴史、物理、化学、天文、地質、生物に至るまで、すべて一人でそれも英語だけで講義を行うことを決意する。 自分の助手は成績優秀な生徒に務めさせ、その生徒を介して別の生徒に伝える、つまり学んだことを別の人間に教えることこそ一番の学びであるという教育方針を貫いた。成績上位の生徒たちが成績下位の生徒や下の学年の生徒に教えるというグループ学習を取り入れたことで、厳しい雰囲気の中、生徒たちは競い合いながら成長していった。だが、無事に卒業できたのは、一回生も二回生もわずか11人だけだったという。

猛反発の中はじまった先駆的な全国初の男女共学

そんな中、二名の女生徒の入学は、生徒たちの成長に大きく貢献した。一人は、今日の男女共同参画社会の礎を築いた「四賢婦人」の一人、徳富久子の娘で評論家・徳富蘇峰の姉でもある徳富初子。もう一人は、横井小楠の娘で後の同志社大学総長の海老名弾正と結婚した横井みや子。当時は男女が同じ教育を受ける環境が整っていない時代で生徒から猛反発もあったというが「学校全体がいい雰囲気に包まれていた」と後にジェーンズが述べたように、彼女たちは勉学への意欲が高く、どの学科でも優れた成績を残し、卒業後は女性教育や女性の地位向上の活動に尽力している。

【協力】熊本市文化財課
【参考文献】
ジェーンズ熊本回想(熊本日日新聞社 発行)
ジェーンズが遺したもの(熊本県立大学 編著)
熊本洋学校とジェーンズ熊本バンドの人びと(潮谷宗一郎 著)

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