シリーズ 熊本偉人伝 Vol.15  ( 旅ムック81号掲載 )
かとうきよまさとかとうけさんけつ
加藤清正と加藤家三傑

清正の懐刀として活躍した肥後加藤家が誇る英雄たち

「加藤清正并十六将之図」(上図) 名古屋市秀吉清正記念館所蔵

秀吉も讃えた三傑の武勲

肥後加藤家中において、秀吉から特に武勇を讃えられた3人を「加藤家三傑」と呼ぶのはご存知だろうか?
小西行長の天草一揆制圧に加勢し目覚ましい活躍を見せた3人は、その武勲を認められ、時の権力者である秀吉から、清正を通じてそれぞれ白鳥毛・黒鳥毛・白黒鳥毛の長槍を賜ったと伝えられている。

三人三様の活躍と性質

三傑の中でも、もっとも多く逸話が残されているのが、飯田直景(覚兵衛)(いいだ なおかげ(かくべえ))である。覚兵衛は、幼い頃から清正と共に育った竹馬の友といわれており、その生涯に亘って清正を守り支えた。武勇にすぐれ、特に槍術には特筆すべきものがあったという。また、土木普請も得意とし、熊本城築城の際は、その類稀なる才覚を発揮した。約180mにも及ぶ三の丸の百閒(ひゃっけん)石垣など、彼の功績は今も城内の随所に見ることができる。また、平成17年(2005)に復元された「飯田丸五階櫓」も覚兵衛の名を冠しているが、これは覚兵衛が建設を行い、守備を担当したことが由来となっている。
森本一久(儀太夫)(もりもとかずひさ(ぎだゆう))も、飯田覚兵衛と同じく、幼い頃から清正に仕えた武将である。幼少時代、賭相撲をとったことが、儀太夫と覚兵衛の一生を決めたというのは有名な話だ。敗者は勝者の家来になるという誓いを生涯守った儀太夫もまた、加藤家を盛り立てた重臣の一人である。現在の熊本城公園テニスコート付近(森本櫓)に居を構えていたと考えられており、やはり平時には土木普請の要として重用されていた。後の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では、亀甲車なる装甲車を作り普州城に一番乗りを果たすなど、攻めの戦を得意とした勇猛な人物であったといわれている。
庄林一心(隼人)(しょうばやしかずただ(はやと))は、前述の二人と異なり、清正が豊臣の七本槍として名を上げた賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い以降に家臣団に加わった。しかし、清正の信頼は古くからの家臣以上に厚かったと伝えられている。また、隼人は戦においては「引き上げ戦」の名手として名を馳せた。朝鮮出兵の際は、最小限の損失で肥後国までの帰路を辿り、覚兵衛や儀太夫を唸らせたという。現在、彼の墓は三傑の中で唯一、熊本市内にある。加藤家家臣団と共に隼人が眠る墓所・禪定寺(ぜんじょうじ)には、今も訪れる人が絶えないそうだ。

加藤家の武将=すぐれた技術者!

三傑をはじめ、加藤家家臣団はすぐれた職能集団としての一面を持っていたといわれている。清正が入国した天正16年(1588)当時、隈本の領民は、河川の氾濫や一揆による領地の荒廃に苦しんでいた。そこで、土木事業に注力して領地再生に取り組み、肥後藩の経済安定化の立役者となったのが、清正と彼の家臣団だったのである。築城などの大事業の前には、必ず領民などを集め、自らの展望や事業の意義をわかりやすく説明していたという清正。大義を持ち、人心を掌握することに長けていた加藤家は徳川家康からも恐れられ、清正の病没後は改易を強いられるほどであった。
現在は、「加藤清正并十六将之図」の中に面影を残すのみとなった三傑。古の武士たちを想いながら城内を歩けば、これまでとは違った表情を発見することができるだろう。

取材協力/加藤神社 宮司 湯田榮弘氏  禅定寺 住職 最勝林佑信氏

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