シリーズ 熊本偉人伝 Vol.29  ( 旅ムック100号掲載 )
かのこぎ じゃくしん
鹿子木 寂心

菊池一族に仕えた中世の大豪族
国内和平を願った隈本城主

生誕年月日不詳 〜1549年没

文武に秀でた「肥後国の老者」 鹿子木氏第10代当主・親員

 樹齢約800年といわれる幹周り13・3m、高さ29mにも及ぶ大きなクスの木が寂心緑地(熊本市北区北迫町)と呼ばれる緑地公園にある。大地に根を張り、枝を大きく広げ、生命力あふれる存在感に圧倒されるその大樹は、戦国時代に加藤清正が築城した熊本城の南側に位置していたといわれる「隈本城」の城主となった鹿子木親員(後の寂心)の墓をその木の根元に巻き込んでいると伝えられており、地域住民から「寂心さんの樟」と呼ばれ親しまれている。
 鹿子木三河守親員は、代々肥後菊池家に仕えた大豪族・鹿子木氏第10代当主である(入道後に厳松軒寂心と名乗る)。鹿子木氏の祖は、鎌倉幕府の斎院次官であった中原親能の末裔で、鹿子木荘(荘園)の地頭として源頼朝の命を受けた三池貞教。赴任後は任地の名をとり姓を鹿子木と改めた。そこから約300年もの間、鹿子木一族は荘園内に「鹿子木古城」と呼ばれる楠原城(現在は城跡の一角に楠原神社がある)を築き、そこを本拠地として、飽田・託摩・玉名・山本の4郡560町を治めていた。
 その10代目となる寂心は、隈本城主として豊後(大分)の大友氏と親交を結び、諸領主間の紛争仲介などの国家安定に尽力。寺社の復興や造営を行い、数々の謡曲や和歌を残すなど、多くの功績を残した人物である。

肥後国の政治の中心的立場を 保ち続けた文武両道の隈本城主

 当時の守護・菊池重朝は、戦いで亡くなった菊池一族の出田氏に代わり、楠原城に本拠を構えていた寂心を千葉城(現・熊本市中央区千葉城町一帯が本丸)に入るよう命令した。入城した寂心だったが、560町を治める彼に対し、80町の領主であった出田氏の城はいささか狭すぎる。そこで、茶臼山の西南部に新たな城・隈本城(加藤清正の熊本城に対して古城と呼ばれる)を築くのである。そこは北・西・南の三方が湿地帯や池沼の自然要塞で、城を造るのには適した場所であった。
 国内和平を重んじていた寂心は、永正13年(1516)の阿蘇山衆徒と彦山の紛争や、翌年の豊福問題をめぐる相良・名和氏間紛争の仲介などで頭角を現していった。また、その頃勢力が衰えていた菊池氏から、強い政治勢力を持つ豊後(大分)の大友氏を後ろ盾としたのである。徐々に政治力を強めていく寂心は国内の諸領主間を調停していき、対立抗争を鎮めることは大友氏の意向に沿う形となって信頼を高めていく。さらに永正17年(1520)、菊池家の養子に迎え入れた大友義長の次男・重治(後の義武)が守護職を継ぎ、寂心は自分の居城である隈本城に迎え入れ、菊池氏の三重臣であった隈部・赤星・城氏らに代わって、田島氏や怒留湯氏らとともに重臣として彼を支えていくのである。

激動の時代に意志を貫き 大友氏に仕えた肥後国老者

 時は進み、菊池家の衰弱により家督の争奪が繰り返されていた頃、菊池義武は次第に本家の大友家から自立を企図するようになり、大内氏と手を結ぶようになった。大内氏は周防(山口)を治めていた守護大名で、九州に出兵し北九州の覇権を大友氏と争っていた人物。寂心は、実兄である大友義鑑に敵対しようとする菊池義武をしばしば諌めたといわれるが、義武はそれを聞き入れなかった。そしてついに天文4年(1535)、大友義鑑に攻められるのである。この時、菊池義武は敗れ、隈本城を捨てて島原に逃れ相良氏を頼った。
 菊池義武が退去した後の天文12年(1543)、大友義鑑が守護職に就き、肥後国は名実ともに大友氏の領国となる。この時、寂心は隠居の身であったが、鹿子木家を受け継いだ次男・親俊は天文9年(1540)に死去していたため、再び寂心が鹿子木氏の家督して活躍、天文18年(1549)に死去するまで大友家を支持し続ける。
 寂心の死後、天文19年(1550)に大友氏による「二階崩れの変」が起こり、大友義鑑が横死した。兄に破れ復活の機会を狙っていた菊池義武はこれを反撃の好機とし、寂心の後を継いだ孫の鹿子木鎮有や田嶋重賢らとともに隈本城に復帰した。さらに、三池・大津山・和仁の諸氏が大友方の小代氏を攻撃、これに名和・相良・合志氏らも義武に協力して、隈本勢は木山城を攻撃した。
 一方、義鑑のあとを継いだ大友義鎮(後の宗麟)は、家中を統制すると肥後に出兵。菊池義武はこれに抵抗したが、再び敗れて島原へ逃れた。それにより鹿子木氏も没落し、隈本城には義武討伐に功績を残した寂心の娘婿である城親冬が入った。鹿子木氏は所領を削られ、飽田郡の上代城(現・熊本市西区上代)に移された。
 この上代城は隈本城の出城として寂心によって築城され、城主はその家臣であった今福民部といわれている。現在、上代城があった城山の山頂には城跡の石碑が立ち、付近は指定史跡の円形古墳がある墓地公園になっている。また、城山の西側には日本五大稲荷の一つに数えられる髙橋稲荷神社があり、毎年2月の初午大祭では多くの参拝者が訪れる。

旧来の伝統と秩序を守り 文雅を愛する風流人・寂心

 寺社再建事業にからむ中央との交渉には、弁舌の能力もさることながら、文化的交流も必要であった。武勇だけでなく文事にも優れていたといわれる寂心。享禄2年(1529)には当時の日本を代表する文化人・三条西実隆から、二千疋(二十貫文)で「源氏物語五十四帖」を購入したことでも知られている。また、数々の謡曲を作ったと伝えられ、自詠の和歌四首が残されている。
 そんな中、大永2年(1522)には藤崎宮(現・熊本市中央区)の造営に着手し、天文11年(1542)に後奈良天皇の勅額を下賜されている。また、近見の阿蘇山衆徒領の維持に協力したり、焼亡した大慈寺(熊本市南区)の復興などに尽力したりといった神社仏寺にまつわるエピソードが残されている。
 一方で、鹿子木氏の後、城親冬から三代にわたり続いた隈本城だったが、豊臣秀吉の九州征伐を機に、当時越中国の領主であった佐々成政の手に渡った。だが、成政の政治不満から起きた一揆の責任を取る形で成正は切腹。隈本城は、次の領主となる加藤清正に明け渡された。
 天正16年(1588)に隈本城主となった加藤清正は、秀吉亡き後、新城の築城に取り掛かった。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で肥後52万石の領主となった清正は、翌年、千葉城・隈本城を含む茶臼山全域を取り入れた近世城郭への改修を始めることとなる。慶長12年(1607)に城は完成、地名が熊本と改められた。これが現在見られる熊本城である。

関連写真

参考文献/新熊本市史(熊本市著)、北部町史(北部町著)、定本熊本城(富田紘一監修)

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