シリーズ 熊本偉人伝 Vol.40  ( 旅ムック110 )
おおたぐろともお
神風連首領 太田黒 伴雄

神を尊び、信念を貫いた魂の叫び
一夜で消えた神風連の志士たち

1834年月日不詳生誕〜1876年(明治9年)10月24日没 享年43

歴史に大きな爪跡を残す 「道義国家」に向けての闘い

日本最後の内乱とも称される「西南の役」が起こる前年の明治9年(1876)10月24日、太田黒伴雄と加屋霽堅ら率いる熊本の士族たち約170名が挙兵した「神風連の変」をご存知だろうか。神風連は、正式には「敬神党」といい、神道を重んじ、尊皇を信条とする志士たちの集団である。 江戸幕府の崩壊から新政府の成立と改革が行われた明治維新以降、新政府が推し進めた欧化政策は彼らの敬神魂に深い影を落とすものだった。西欧の習いが世の流れとして浸透し、刻々と変わっていく思想や法律、そして文化。かつての神道が崩壊しつつある自国の行く末を案じ、憂い、怒り、道義の国への回復を一心に神に祈った彼らが、新政府に異を唱え決起したのは、自然の道理というものだろう。 神風連の変として歴史に刻まれたこの行動は槍と刀だけを手に闘った志士たちが一夜で鎮圧され、政府軍に殺された数よりも自刃した数が多いという他に類を見ない稀有な事変である。

神道を究め、古道を実践 師・林桜園の教え

太田黒伴雄は、1834年熊本被分町(現・熊本市中央区水道町)にて飯田熊助の三男として生まれ、名を安国という。幼き頃に父を失い12歳の時に大野家の養子になると名を大野鉄兵衛とし、林桜園が天保8年(1837)に千葉城高屋敷(現・千葉城公園 熊本市中央区)に開いた私塾・原道館に入る。本居宜長の高弟・長瀬真幸に就いて神道と国学を学んだ林桜園は亡くなるまでの43年に渡り約千二百人余の門弟を輩出している思想家である。鉄兵衛は彼の元で学び神道の理を聞き尊信していくのである。ここで加屋霽堅らのちの神風連の志士たちと出会い、師の「神事は本也、人事は末也」の言葉にも見て取れるように、敬神第一主義の思想は神風連の志士たちの心の支えであり、林桜園の教えを受け継ぐ者たちとなっていく。そんな鉄兵衛は明治2年(1869)伊勢神宮の分霊を祀る新開大神宮(熊本市南区)の宮司との縁で養子に入り、名を太田黒伴雄と改めている。

次々と変わっていく日本 明治維新と文明開化

明治維新後、新政府は欧化政策を推進。敬神家である彼らの想いとは裏腹に着実に自国が変化していく世の中に目の当たりにしていった。明治3年(1870)には藩校・時習館が廃止、熊本洋学校へと代わり外国人教師が教壇に立つようになっていた。また、欧化政策に反対する勢力を抑えるために、日本陸軍の部隊となる鎮台を全国に設置。九州では明治6年(1873)熊本に設けられ、同年、安岡良亮が県令として来熊。安岡は神風連の志士たちを仕官に推して取り込もうとしたが失敗に終わり、それならばと彼らを神職に就かせる。加屋は錦山神社(現・加藤神社 熊本市中央区)、斎藤求三郎は立田三宮神社(現・三宮神社 熊本市北区)、そのほか阿蘇神社(阿蘇市)、玉名大神宮(玉名市)、青井神社(現・青井阿蘇神社 人吉市)など熊本県内各地の主要23社に57名が宮司、禰宜などの神官として奉職することとなった。

次々と変わっていく日本 明治維新と文明開化

時間とともに欧化が進んでいく中、神風連の志士たちは国の情勢が自分たちの想いとは逆行するのをただ黙って見ていたわけではなかった。彼らは太田黒が居る新開大神宮に集まり、新政府軍と闘うべきか否かを神に問う「宇気比」を行うが、神からはなかなか許しは出ず、直接行動をすることはできないままであった。 そんな中、さらに追い打ちをかけたのが、明治9年(1876)3月に発布された「廃刀令」である。続く6月には「断髪令」まで発布された。これらはまさに、武士の魂を引き裂かれるような屈辱ともいえる法律だった。政府への憤りを抑えられない神風連の面々は、再度宇気比を行い、ようやく神の許しを得て決起の意思を固めた。そこには、軍事的戦略は無かった。あるのは、かつての日本を取り戻したいという強い意志のみ。皆、死を覚悟していた。

持ち合わせていたのは 刀と槍と無心の国体護持

明治9年(1876)10月24日、夜になり集まったのは170名。年老いた者もいれば、父子兄弟で臨む者たちもいた。欧化の象徴でもある近代火砲は手にせず、首領の太田黒を筆頭に武士の心とも呼べる刀と槍だけを手にして向かったのは、近代火砲を装備する熊本城に置かれた熊本鎮台。3隊に分かれ、第1隊30名は司令長官宅や県令宅など5カ所を襲撃、第2隊の太田黒と加屋は70名の志士を率いて砲兵営、第3隊70名は歩兵営に斬り込んだ。彼らの猛攻に不意を突かれた政府軍だったが、反撃に出るのは早かった。敵弾が次々と志士たちを貫き、加屋が倒れ、遂に太田黒も深手を負い介錯ののちに亡くなってしまう。首領を失った一党は再起を図ろうとやむなく散り散りになるが、時間が経つにつれ警戒が厳しく再挙が難しいと悟ると、自宅で山頂でと次々と自刃する者が後を絶たなかった。 一夜にして鎮圧された神風連の変。太田黒伴雄以下123名の死者を出し、そのうち実に87名が自刃であった。この一挙はのちに反乱ではなく国を想い憂う行動であったと認められ、太田黒と加屋は明治天皇から神階における位「正五位」が贈られている。 ひたすら神を信じ、信念を通し、自国の未来を危惧して散った彼らの行動は、ただの事件で片付けられない。現代の私たちが今一度、己の国、思想について考える機会を与えてくれる。

取材協力/
神風連資料館
新開大神宮
参考文献/
神風連資料館収蔵品図録(神風連資料館発行)
神風連小史 絵で見る神風連(神風連資料館発行)

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