シリーズ 熊本偉人伝 Vol.10  ( 旅ムック76号掲載 )
ごそくのくつのたび
「五足の靴」の旅

異国情緒漂う風景と熱い信仰を訪ねる

与謝野鉄幹、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野万里

豊かな自然に驚きと感動。青年たちが歩いた天草西海岸

「五足の靴が五個の人間を運んで東京を出た。五個の人間は皆ふわふわとして落ち着かぬ仲間だ。彼らは面の皮も厚く無い、大胆でも無い。而も彼らをして少しく重味あり大量有るが如くに見せしむるものは、その厚皮な、形の大きい五足の靴の御陰だ」 の書き出しではじまる「五足の靴」。明治40年(1907)8月7日から9月10日まで、東京二六新聞に連載された九州旅行記で、作者は〝五人づれ〟。その5人とは、詩歌機関誌「明星」を主宰する与謝野鉄幹(本名:寛、35歳)、その同人である北原白秋(早大文科23歳)、吉井勇(早大文科22歳)、木下杢太郎(本名:太田正雄、東大医科23歳)、平野万里(東大工科23歳)。同年7月28日から8月27日までの1ヶ月にわたる九州西部をめぐる旅は、近代文学を代表する詩人たちの若き日の冒険だった。  一行は福岡から唐津、長崎とめぐり、8月8日に長崎県茂木港から暴風の荒海を船でわたり、富岡港(現在の天草郡苓北町)へ上陸。上陸後は、天草西海岸沿いを徒歩で南下している。
明治40年代の天草島は、言わば未開の孤島。百トン前後の蒸気船が唯一の交通手段で、港は自然の入り江がそのまま利用されていた。さらに、島内の道路網も未開発。富岡から大江村(現在の天草町大江)までは、礫石の海岸あり、峻険な山坂ありの悪路が続く。約8里、32㎞の道のりを、スーツ姿に学生服、そして革靴というハイカラな出で立ちで、夏の炎天下を歩き続けたのである。相当に体力を消耗しただろう。しかし、素朴で自然豊かな天草の情景は、東京から来た青年たちにとって、新鮮な驚きと感動を与えた。木下杢太郎は、旅行に出る前は詩を書けなかったそうだが、この旅で4人が詩や短歌を次々に作るのを間近に見て、「自分にもできるのでは…」と作ったのが詩作のはじまりだという。青い空と海、強い日差し、したたる汗、飛び交う会話。5人が体感した全てが「五足の靴」に込められている。

冷たい水でもてなしてくれた憧れの人・パアテルさんとの対面

「五足の靴は驚いた。東京を出て、汽車に乗せられ、唯僅に領巾振山で土の香を嗅いだのみで、今日まで日を暮したのであった、初めて御役に立って嬉しいが、嬉しすぎて少し腹の皮を擦りむいた、いい加減に御免蒙りたいという。併し場合が許さぬ、パアテルさんは未だ遠い遠い」。5人の旅の目的は、土地の人が〝パアテルさん〟と親しく呼ぶカトリック教フランス人宣教師、ルドヴィコ・フレデリック・ガルニエ神父に会うことだった。
「よか水をくんで来なしゃれ。上におあがりまっせ」と、上手な天草言葉で従僕の茂助に冷たい水をくんで来るように命じ、若い詩人たちをもてなした。この時、畑の中から出土した隠れキリシタンのクルスを見せてもらい、杢太郎はスケッチを描いている。このスケッチをもとにした挿し絵が、白秋が2年後に出版した「邪宗門」で使用されている。
ガルニエ神父は25歳の頃に来日し、京都や長崎県の伊王島などの天主堂をめぐり、ここ大江の地で約50年を過ごした人である。半農半漁の貧しい村で、農民と苦難をともにし、自費を投じて福祉事業を行うなど、献身の生涯を大江の地で終わったのだという。  キリシタン禁制の高札が撤去されたのは明治6年(1873)のこと。天草島の潜伏キリシタンの所在を探知していた長崎港外の「神ノ島」から、信者の漁師が旧キリシタンの子孫を捜す目的で大江村に渡り、この信者のすすめによって大江村にキリスト教が復活。その後、山一つ超えた﨑津にも入信者が出て、この2つの地区にキリスト教が根を下ろした。異国で、しかも閉ざされた辺境の地で、ひっそりと信仰の灯を灯し続ける青い目の神父。その姿は、5人の若者たちに強烈な印象を与えたことだろう。なお、現在のロマネスク様式の大江天主堂は、昭和8年(1933)にガルニエ神父の手で建設されたもの。5人が訪ねた頃の教会は、古材を寄せ集めた粗末な建物であった。

地方文壇との交流や炭鉱視察…5人それぞれの旅の目的

東京に住む5人が、遠く離れた天草のパアテルさんをどうやって知り得たかは明かされていない。旅のコースは、九州出身の北原白秋が、故郷の文学仲間の白仁勝衛にアドバイスをもらい決めていったという。当時は、柳川と天草は商い船が行き来していたそうだから、船員のうわさ話が白仁の耳に入り、白秋に伝わったのかもしれない。
後に木下杢太郎は「旅行に先立って、上野図書館に通い、天草騒動(天草・島原の乱)に関する雑書を数種読みあさりました」と旅行前にリサーチしていたことを語っている。明治39年(1906)には、東京帝室博物館で「嘉永以前西洋輸入品及参考品」という展覧会が開催され、キリシタン遺物を含む786点が公開。会期が延長されるほど人気を博したというから、木下もこの展覧会を見たのかもしれない。
旅の前半に、福岡、佐賀、唐津、柳川をめぐっているが、これは地方文壇との交流が目的であった。与謝野鉄幹が主宰する「明星」を広めるためでもあるが、地方の文学愛好者にとっては、中央で活躍する文人と接触できる好機でもある。北原白秋は、生まれ故郷の九州を仲間に案内したいという思いがあった。福岡県柳川では白秋の実家に宿泊しているが、この時、文学の道に進むことを反対していた白秋の父を与謝野が説得したという。コースの中には、三池炭鉱や佐世保の軍事施設が加わっているが、これは東大工科の学生であった平野万里の影響だといわれている。視察という目的で研究費が大学から与えられ、これを旅費に充てたといわれている。

「五足の靴」の発表により文壇に南蛮趣味ブームが到来

平戸や島原など、キリシタンゆかりの地を訪ね歩いているにも関わらず「どこもかしこも近代化され、天草だけが異彩を放っていた」と木下杢太郎は絶賛している。日清・日露の両戦争で勝利し日本各地の風景が変わっていくのに対し、天草だけは隠れキリシタンの時代から変わらないエキゾチックな情景をとどめていたのだろう。
この旅での体験は、旅行記「五足の靴」のほか、一人ひとりの作品に多大な影響を与えている。木下杢太郎は詩「天草組」(10篇)、戯曲「南蛮寺門前」を、北原白秋は詩「天草雅歌」(11篇)を発表し、白秋自身最初の詩集「邪宗門」に収録している。明治末年から大正にかけての文壇に「南蛮趣味」の流行をもたらし、芥川龍之介をはじめキリシタンをテーマにした作品も数多く登場した。「南蛮文化」「キリシタン」を文化遺産として幅広い層に再発見させるなど、大きな役割を果たす作品となった。

取材協力/天草キリシタン館

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