熊本を代表する民謡「おてもやん」にまつわる2人女性、イネとチモ
永田イネ(稲)生没年
1865年(慶応元年)2月24日生誕〜1938年(昭和13年)12月16日没(享年74才)
富永登茂(通称チモ)生没年
1855年(安政2年)12月5日生誕〜1935年(昭和10年)1月11日没(享年81才)
熊本を代表する民謡「おてもやん」にまつわる2人女性、イネとチモ
永田イネ(稲)生没年
1865年(慶応元年)2月24日生誕〜1938年(昭和13年)12月16日没(享年74才)
富永登茂(通称チモ)生没年
1855年(安政2年)12月5日生誕〜1935年(昭和10年)1月11日没(享年81才)
熊本で長年愛され続けている民謡の一つに「おてもやん」という唄がある。二拍子の軽快な曲調と、方言や言葉遊びが散りばめられた陽気な歌詞が特徴的なこの民謡は「熊本甚句(じんく)」と呼ばれたが、元は幕末から明治の花柳界で流行ったもの。
昭和10年(1935)に赤坂小梅によりレコード化、NHK紅白歌合戦で全国的に広まる人気民謡となったが、冒頭に出てくる最初の一句をとって「おてもやん」の曲目名で定着した。今回は、この唄を詩曲した「永田イネ」、おてもやんのモデルと言われる「富永チモ」、2人の女性とその周囲を取り巻く環境について紐解きながら、おてもやんのルーツを探っていく。
永田イネ(稲)は慶応元年(1865)2月24日、熊本市米屋町(現・熊本市中央区米屋町)の「糀屋(ももや)」という肥後藩御用達の味噌醤油製造屋の一人娘として生まれた。永田家は肥後藩に多額のお金を献上し、町民でありながら、苗字・帯刀・家紋の使用を許されていた社会からの信頼の厚い家柄。しかし、明治維新で幕藩体制が崩れると共に、永田家の家業は傾き始める。
今後の行く末を心配した母の辰(たつ)は、イネが自立できるようにと、芸の道へ進ませた。イネが4歳の頃だった。琴や三味線、太鼓や小唄、舞踏に歌舞伎と実に多岐にわたったという。どんどん才能を開花させたイネは、18歳の時に師匠の芸名を継いで「亀甲屋嵐亀之助」を名乗り、プロとしてデビューすることに。門下生は熊本検番、熊西検番の芸妓150余人に加え、博多検番、牛深検番にまで出張し指導していた他、そば屋や旅館、料亭などの娘にも教えていたという。
おてもやんのモデルとなる富永登茂(とも)(通称チモ)は安政2年(1855)12月5日に、飽田郡横手手永の北岡村(現・熊本市西区春日(かすが))の小作農家の長女として生まれた。明治6年(1873)の頃には父母を亡くしており、7歳違いの妹・登寿(とじゅ)と共に料亭で下働きをしていた。小作で生計を立てることは難しかったようだ。
そんな2人が出会ったのは、明治24年(1891)を過ぎた頃と推測されている。芸で身を立てたイネが20歳で花街や商人街に近い五反(現・熊本市西区春日5丁目)に稽古場を構えた頃、チモの住んでいた家が鉄道の開通に伴い立ち退きとなり万日(現在の春日小学校一帯)に移った。チモは自宅の万日から五反を通って職場の料亭に通っていたため、出勤途中にイネの稽古場に寄って立ち話をしたりお茶に呼ばれるようになって心を通わせ、お互いの人間性に惹かれていったという。時には芸のレッスンの手ほどきを受けていたかもしれない。チモは、自分より10歳も若いながら育ちも良く芸事に精通したプロであるイネに憧れを抱き、イネは貧しいながらも明るく力強く生きようとするチモに芸人として突き進むことによる孤独を癒やされていたことだろう。2人の友情は年齢や境遇を超えて、強く熱いものへと育まれたに違いない。それは、イネがチモの「氏子札」を自分の遺品の中に残したことからも証明される。
こうしたイネとチモの交流を通して誕生したのが「おてもやん」と言われている。
では、おてもやんの「おても」とはどこから来たのか。いろいろと諸説あるがチモの出身が牛深と言われており、独特の訛(なま)りを持っていたため、通称名であるチモが派生してテモになったというもの。チモの下働き時代を指して「手間暇をかける」の手間が訛って「ても」となったというもの。
また「やん」については、社会的地位で異なる呼称の一つのようで、明治維新後に崩壊した士農工商の身分制度に代わり、華族や士族、平民階級などが設けられた。平民の中でも呼称が上流は「さん」、中流「ちゃん」、下流は「やん」に分かれ、おてもやんの呼び方は下流に属することになるが、もちろんイネは親しみを込めて呼称したとされる。
ただ、他にもおてもやんの誕生には諸説あり「おても」は、つくね芋の「お手芋」であり、野菜尽くしの戯れ唄という説。「おてもやん」は肥後勤皇党の代名詞で、歌詞に出てくる「ご亭どん(ご亭主殿)」は孝明天皇にあたる忍び唄であるという説。西南戦争の際に、熊本士族をあざ笑った農民の唄という説。しかし、最も合理的かつ矛盾なく状況を説明できると言われるのは、やはりイネとチモの交流から生まれたもの、ということのようだ。
次に、おてもやんの歌詞にも注目したい。一番はチモの近況を紹介したもので、事情があって結婚式は挙げていないが全く気に病んでいない、というもの。
「あら、おてもさん、あなたは最近結婚したそうですね」「ええ、一応結婚はしましたが、村役(村の幹部吏員)、鳶役(火消しの幹部)、肝煎り(名主または地域の世話人)さんたちが言うには、夫になる人が疱瘡(ほうそう)のようだと言うので、まだ結婚式はしていません。あの人たちが後はどうにか適当に段取りをするでしょう」。
顔も見ていない相手との結婚が普通だった当時、自分の置かれている状況を気にすることもなく陽気に振る舞うチモの様子が目に浮かぶ。
二番では、イネが心に慕う人がいることを告白している。「三つの山を越えた所にいる人に惚れています。でも、なかなか女の口からそれは言えません。そろそろお彼岸も近づいているので、その時には大勢の若い男女がお寺の夜の説教を聞きに集まるので、その折にあの人に会ってゆっくり話すつもりです。私は、見かけだけの男には惚れません」。その結末がどうなったかは図り知ることができないが、結婚した形跡はないようだ。
三番については、一番・二番と全く内容が違う人生訓であり、方言ではなく共通語で書かれていることから、追加で作られたと考えられている。「人生は辛く苦しいことがたくさんあるけれど、それを恐れない気力を男は持ちなさい。もちろん女性も同様。くよくよしても何もならないでしょう。気力と胆力を持って前向きに努力しておけば、きっと実を結ぶものですよ」。この歌は大正期に入り、自分の人生を振り返ったイネが、歌として書き残したかったものと言われている。
<歌詞>
おてもやん 歌詞(一番)
おてもやん あんたこの頃 嫁入りしたではないかいな
嫁入りしたこつぁしたばってん
ご亭どんがぐじゃっぺだるけん まぁだ盃ゃせんだった
村役 鳶役 肝入りどん あん人たちのおらすけんで
後はどうなっと きゃあなろたい
川端町つぁん きゃあめぐろぃ
春日ぼうぶらどんたちゃ 尻ひっぴゃあで 花盛り花盛り
ぴーちくぱーちくひばりの子 げんぱくなすびのいがいがどん
お座敷歌として熊本のお座敷に広がっていったおてもやん。それが全国区に広がるきっかけの一つとなったのが、与謝野鉄幹や北原白秋ら若き詩人たちが交代で執筆した紀行文「五足の靴」である。明治40年の8月29日付の東京二六新聞に掲載されていた「画津湖(えづこ)」の章で、同席した2人の芸妓が三味線に合わせ「おてもやん」を歌ったという話が出てくる。歌詞は2番までが紹介されており、当時はまだ3番は作られていなかったと推測される。次第に唄は、東京の花柳界でも流行るようになったようで、イネの没後、イネの従姉妹の子息が上京したときにその事実を知り、イネの弟子である赤坂小梅に依頼する運びとなりレコード化された。
イネは最後までこの唄のモデルを「公表できない」と言い続けたという。モデルを特定することで、その人物を取り巻く公表できない事実が露呈されるのを防ぐためといわれているが本人の口から語られる事はなかった。いずれにせよ、イネとチモ、互いに精一杯人生を駆け抜けた強くたくましい2人の姿は、現在の熊本の女性像にも通じるものがあるのかもしれない。泰巖寺の境内にあるイネの墓の墓標には本名ではなく芸名の「亀甲屋嵐亀之助之墓」と刻まれている。慶応・明治・大正・昭和を生き抜き、自分にも弟子にも厳しく芸一筋に生きた実に芸能人らしい墓である。
晩年の永田イネの写真。愛犬ゆき(犬種・狆(ちん))とともに。(肖像写真の複写/小山氏所蔵)
ひご野菜の1つである春日ぼうぶら(かぼちゃ)。春日地区で作られてきた在来種で歌の歌詞にもでてくる。
明治政府が居住近くの神社より氏子札をもらう様義務づけた。氏子札とは当時の戸籍や身分証明の側面を持ったもの。右・永田イネの氏子札(熊本大神宮)、左・富永登茂の氏子札(北岡神社)。(熊本市五福まちづくり交流センター展示)
永田イネの遺品。勧進帳や三味線バチ、かんざしなどが残されている。(熊本市五福まちづくり交流センター展示)
泰巖寺(熊本市中央区下通)にある永田イネの墓。正面には扇が刻まれ、花立ては鼓の形をしている。
参考文献/くまもと人物紀行おてもやん(小山良著)、味と歓楽五十年(佐渡資生著)、春日の歴史-春日校創立百周年記念-(春日小学校編著)