シリーズ 熊本偉人伝 Vol.1  ( 旅ムック67号掲載 )
みやもとむさし
宮本武蔵

宮本武蔵と熊本。文武をたどる

熊本と武蔵の縁

小次郎との巌流島の戦いなど数々の武芸者との勝負を重ねて諸国を修行し、大阪夏の陣や島原の乱へも出陣した武蔵は、寛永17(1640)年8月、57歳の時に熊本入りした。肥後藩の初代藩主細川忠利(ほそかわ ただとし)からの招きがあったからだ。16歳の頃から諸国を行脚(あんぎゃ)した武蔵が、自己と向き合う終焉の地となったのが熊本だった。武蔵と熊本の縁が繋がったのは、彼の養子宮本伊織(みやもと いおり)が明石藩主小笠原忠真(おがさわら ただざね)に仕えていたことにあろう。忠真は幕府の命による国替えによって小倉藩へと移り、伊織もそれに伴い小倉藩の筆頭家老となる。その小倉の前藩主が細川忠利であり、忠利の妻は小笠原忠真の妹・千代姫であった。この縁から武蔵の話が忠利へと伝わり、武芸にも通じていた忠利は、兵法家として知名度が高い武蔵を相談役として招いたのである。

武蔵熊本入り

熊本での武蔵の待遇は、士官でもなく役職もない客人扱い。熊本城内の千葉城の一角にある屋敷を与えられた。そこからは熊本城の天守閣が見える。現在は、この場所にNHK熊本情報センターが建っており屋敷の面影はないが、敷地内には武蔵が使ったという井戸跡がある。武蔵が熊本入りして間もない10月23日付の奉書(ほうしょ)が永青文庫(えいせいぶんこ)に残っている。その内容は、「道鑑(どうかん)様と宮本武蔵を呼び寄せるので、人馬味噌塩すみ薪に至るまで念を入れて接待するよう、藩主忠利から申し付けられた」という内容。湯治のために、熊本城下の北部、山鹿湯町(やまがゆまち)の新築の御茶屋(別荘)にいた忠利が、彼らを呼び寄せたのである。山鹿は豊前街道の宿場として栄えた温泉地で、現代においても泉質が良く「美人」の湯として県外からの湯治客が多い温泉郷。一説によると、武蔵は風呂嫌いとされているが、忠利から招かれた際に11月初め頃まで滞在したようなので、山鹿の湯につかって穏やかなときを過ごしたのかもしれない。

武蔵が遺した「二天一流兵法」

武蔵は、今までの剣豪人生の集大成ともいえる「二天一流兵法」を確立し、彼の元に入門した多くの熊本藩士やその子弟にそれを伝えた。肥後藩主忠利、家老となる長岡(松井)式部寄之、沢村宇右衛門友好、「二天一流」の正当な継承者となる寺尾孫之丞勝信と寺尾求馬助信行の兄弟はじめ、多くの藩士が門弟となり、その数が一説には千人以上ともいわれた。二天一流兵法とは、テレビや映画にも出てくる有名な二刀流のこと。左右の手に一本ずつ剣を持って構えるその姿はとても勇ましい。
寛永20(1643)年10月上旬、武蔵は、熊本の西にある岩戸山に登って天を拝み、観音様に拝礼し、二天一流の「考え方」「真髄」を書き表すことを決意する。その書とは、かの有名な『五輪書(ごりんのしょ)』である。五輪書には、武蔵の自伝、武術にあたる際の心構え、兵法技術、戦術、他の流派など多岐に渡って記載されている。五輪とは、密教の用語で万物を構成する『地水火風空(ちすいかふうくう)』を表し、それらを1つの輪にたとえて欠けるところがないという意味。『地の巻』の中で、武蔵は兵法の道を大工に例えている。

〜大工の心得は、よく切れる道具を持ち、暇ひまには研ぐことが肝要である。その道具を使って、御厨子(みずし)、書棚、文机(ふづくえ)、卓、または行灯(あんどん)、まな板、鍋のふたまでも上手に作り上げること、大工の最も大事な仕事である。〜

そして、人を統率する道を大工の棟梁に例えている。

〜棟梁(とうりょう)が大工を使うには、その技術の上中下の程度を知り、あるいは床廻り(床の間)、あるいは戸・障子…(中略)…といったようによく人を見分けて使えば、仕事も捗り、手際がよいものである。(中略)使いどころを知ること、やる気の程度を知ること、励ますこと、限界を知ること。これらの事どもは棟梁の心得である。〜
(決定版 五輪書 現代語訳 著/宮本武蔵 訳/大倉隆二 から引用)
この内容は、兵法だけでなく、現代社会においても共通する心得であろう。武蔵は、13歳の頃に初めて播磨で勝負を行ってから28から29歳まで60余の勝負を行い、30歳を超えた頃にそれまでの道を振り返ったという。そこからは、自らを極める鍛錬を続け、50歳のころに兵法の真髄を会得した、と五輪書に記されている。もしかしたら武蔵は熊本に移る前から何らかの証を遺したかったのかもしれない。この五輪書には武蔵の遺志がちりばめられている。

霊場 霊巌洞の気迫

「五輪書」が書かれた場所は、金峰山近くにある曹洞宗雲巌禅寺(そうどうしゅううんがんぜんじ)の裏手にある霊巌洞(れいがんどう)と言われているが確かではない。実際にこの場所を訪れてみた。霊巌洞へと向かう道は岩山を削った細い道。武蔵が訪れたときは、人がすれ違うのもやっとの狭さであっただろう。道を進んで行くと五百羅漢(ごひゃくらかん)が並ぶ神秘的な岩場が出現する。そこを通り過ぎると、洞窟「霊巌洞」がある。高さ3m、幅3.5m、奥行6mの空間。この凛とした空間に佇んでいると、静けさの中にある凄みと腹の底にずっしりとした力強さを感じた。武蔵が五輪書を書き記すことを決意したとき、これまでの数々の真剣勝負の刃の音が洞窟内に響き渡ったような気がする。
ところで、この「五輪書」。現代に残っているのはすべて写本である。また、地水火風空の五巻も途中からは弟子達が書いているという説もある。原本が発見されていないのは残念ではあるが、武蔵の遺志が弟子達を通じ現代に伝わっているのは確かである。

秘密の御前試合

武蔵が熊本入りしてまもなく、忠利の命により雲林院(うじい)弥四郎光成と秘密の御前試合が行われたという記述が武蔵の伝記「二天記(にてんき)」にある。光成は、柳生新陰流免許皆伝の達人で剣術指南役を担っていた人物。伊勢の出身で光成の父は新当流免許皆伝の剣豪、雲林院弥四郎光秀である。御前試合は、側近をも遠ざけ、太刀持ち一人を置いて木刀による立ち会いであった。双方とも、剣術の達人である。緊迫した試合が繰り広げられた。指南役の威信をかけて武蔵に挑んだ光成だったが、なかなか打ち込めない。光成の打ち込む気を感じた武蔵が二刀流特有の構えを自在に変え、打ち込む隙を与えないからだ。光成は三度打ち込もうとするがついに一度も打ち込めなかった。そこで、柳生新陰流の達人でもある忠利自らが武蔵と立ち会うが、やはり勝てなかった。忠利は驚き感心し、細川藩は藩をあげて武蔵の二天一流の門下となった。光成との秘密の御前試合については、熊本市横手・禅定寺(ぜんじょうじ)にある雲林院氏奕世(うじいしえきせい)之墓と刻まれた墓碑文の中にも刻まれている。その中には、「宮本武蔵と君前に於いて校技(こうぎ)を興(おこ)す。公すなわち之を賞し佩刀(はいとう)を賜(たま)う」とあるが、御前試合の結果についてはここには記されていない。とはいえ、墓碑に武蔵との御前試合について刻まれているということは、光成にとっても一門にとっても、この勝負は大きな出来事だったのであろう。

武蔵が眠る武蔵塚公園

「死後も藩主を見守りたい」という遺言から、大津(おおづ)街道沿いに葬られたという武蔵の墓碑が熊本市龍田町にある。葬儀が終った武蔵の亡骸(なきがら)は甲冑(かっちゅう)を着けた立ち姿で埋葬されたとの話も伝わっている。この場所は、藩主の参勤交代の行列を見送る場所であったそうだ。自らの人生のまとめともいえる五年間をこの地で過ごさせてくれた細川家への武蔵の感謝の気持ちを死後も伝えるためだったのだろうか。独行道にある「身をあさく思、世をふかく思ふ(自分中心の心を捨て、世の中のことを深く考える)」という思いと通じるようにも思う。この地は、現在、武蔵塚公園として整備され、宮本武蔵像や日本庭園などがある市民の憩いの場で、桜の季節には花を楽しむ家族連れも訪れる。なお、武蔵の墓といわれる場所は、熊本市内には他に四カ所ある。熊本の人々に武蔵が愛され親しまれているという証であろう。

武蔵が遺した芸術作品

武芸の達人武蔵は、兵法の心に通じる芸事や芸術にも造詣(ぞうけい)が深く、多くの芸術作品を遺している。武蔵の墨絵の題材は、花鳥画や達磨(だるま)などの人物画が多く「鵜図(うず)」(国指定重要文化財)や「正面達磨図」(国指定重要文化財)を目にした方も多いだろう。また、今回、永世文庫展示室に展示される「達磨・浮鴨図(うきかもず)」の達磨の目をじっと見ていると、まるでこちら側が見られているような緊張感がじわっと溢れてくる。剣気みなぎる達磨の眼に光が宿っているようだ。

参考資料/宮本武蔵 研究論文集(福田正秀著/総合出版社)、武州伝(難しい伝)来記(福田正秀著/ブイツーソリューション)、お伽衆宮本武蔵(井上智重・大倉隆二著/草思社)、決定版五輪書(宮本武蔵著/草思社)

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