シリーズ 熊本偉人伝 Vol.6  ( 旅ムック72号掲載 )
なつめそうせき
夏目漱石 【前編】

五高の英語教師として教育に情熱を注ぐ。明治の文豪が過ごした4年3ヶ月熊本時代

夏目漱石生没年
慶応3年1月5日(1867年2月9日)〜 大正5年12月9日(1916年12月9日)

「坊っちゃん」の松山から「森の都」熊本へ

明治29年(1896)4月13日、夏目漱石は英語教師として第五高等学校(現熊本大学)(以下「五高」)に着任。29歳の時だった。池田停車場(現JR上熊本駅)に着いたのは午後2時過ぎ。駅から人力車に乗り、京町の坂を上り、新坂を下り、その時に眼下に広がる熊本市街を一望。木々で覆われる街の美しさに「熊本は森の都だ」と言ったと伝えられている。 漱石は、慶応3年(1867)、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区)に生まれる。本名は金之助。生後すぐに里子に出されるが、9歳の時に養父母が離婚したため夏目家に帰る。しかし、両親からは疎まれ、家族の愛に恵まれない少年時代を送ることとなる。23歳で創設間もない帝国大学英文科に入学。大学予備門(後の第一高等中学校)時代に、正岡子規と出会い、子規が亡くなるまで深い親交が続いた。 帝国大学卒業後は、大学時代からの親友である菅虎雄(すがとらお)の斡旋(あっせん)で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学)に赴任。松山は子規のふるさとでもあり、当時、静養中の子規の指南のもと俳句を学んでいる。その後、再び菅の紹介で五高に赴くこととなる。着任当時は借家がなく、約1ヶ月間は薬園町の菅虎雄の家に転がり込み、菅の末妹ジュンの世話になった。五高の英語教師と言えばラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がいるが、ハーンが退任した2年後に漱石が熊本に来た事になる。

五高生に慕われる面倒見のいい先生

五高での漱石は、英語教師として精力的に働いていたという。五高生の英語の学力不足を心配して課外授業を行い、山川信次郎や狩野亨吉(かのうこうきち)など東大時代の親友を教師として招くなど、尽力した。また、学業だけでなくボート部の部長としても五高生の面倒をよく見ていた。こういうエピソードが残っている。日清戦争で海軍省から大型ボート二曹を払い下げられることとなり、部員が佐世保まで受け取りに行ったところ、彼らは飲食に使い果たしたという。約百円の弁済に困り、先生たちに懇願して回ったが、みんなから断られる。それを聞いた漱石が一人で弁済した。また、才能ある生徒に入れ込み、書生として自宅に住まわせるだけでなく、学費や食費などの面倒を見ていたという。
英語教師の職に情熱を注ぐ一方で、次第に東京に帰りたい、文学を生業(なりわい)にしたいという意志が強まっていく。明治30年(1897)に子規に宛てた書簡に「教師を辞めて単に文学の生活を送りたきなり換言すれば文学三昧にて消光したきなり」と述べ、心配した子規は、外務省に勤める叔父に相談し、翻訳官はどうか、仙台はどうか、と伝えているが、漱石は子規の申し出をすべて断っている。五高への義理や自分を介して五高に勤める親友たちを配慮してのことだ。もちろん、自分の講義に熱心に耳を傾ける五高生たちを、途中で放ってはおけないという気持ちもあったのだろう。

熊本ではじまった漱石の新婚生活

熊本時代は、生涯の中でも比較的幸せな時間であった。松山時代に見合いをしていた中根鏡子と、第一の家「光琳寺の家(熊本市下通)」で結婚。結婚式の6月9日はあまりにも暑い日だった為、式が一通り終わってから養父は漱石の浴衣を借り、漱石や鏡子夫人も私服に着替えた。列席者は新婦の父、東京から来た女中と婆や、車夫の総勢6名で、総費用は7円50銭と簡素な式だった。三三九度の杯が一つ足りなく、後に鏡子がそのことを語ると「どうりで喧嘩ばかりして、夫婦仲が円満にいかないわけがわかった」と笑ったそうだ。
漱石夫婦の新婚生活はどうだったのだろう。鏡子は貴族院書記官長の娘として、のびのび天真爛漫に育ち、東京にいたときは買い物さえしたことがなかった。女中がいるにしても、家事は大変な仕事だったようだ。しかも、鏡子の朝寝坊は有名で、漱石もしばしば朝食抜きで学校へ行くことがあったという。一方で漱石は新婚早々「俺は学者で勉強しなければならないから、おまえなんかにかまってはいられない」と鏡子に宣言する。また、面倒見のいい漱石を慕い、同僚を下宿させたり、五高生を書生としておいたり、大勢の弟子たちの出入りも多かった。そんな中でやりくりし、家庭を切り盛りできたのも、鏡子がおおらかな性格だからできたのかもしれない。
明治30年(1897)、結婚して初めての正月を迎え、鏡子は苦心しておせち料理を作った。しかし、下宿していた漱石の同僚や学生が食べ尽くしてしまい、年始客が来た時には出す料理がなくなってしまう。夫婦は年始早々大げんかをしてしまい、これに懲りた漱石は、次の年から年始客からの逃避を企てる。これが「草枕」のモデルとなった小天(おあま)旅行だ。

小説のヒロインと出会う草枕の旅

同僚の山川信次郎と玉名郡小天村(おあまむら/現玉名市小天町)へ正月を過ごす旅に出たのは、冷たい雨の降る同年の暮れのこと。熊本市島崎岳林寺から登りはじめ、「山路を登りながら、こう考えた」という「草枕」冒頭の山路に当たる鎌研坂(かまどきざか)を抜ける。鳥越峠(とりごえとうげ)、野出峠(のいでとうげ)を経て小天温泉にたどり着いている。「おいと声をかけたが返事がない」と主人公・画工が立ち寄った茶屋で、漱石たちも休憩したのだろう。
当時小天温泉には数軒の温泉があり、漱石が泊まったのは小天の名士である前田案山子(かがし)の別邸だった。案山子の二女卓子(つなこ)が、小説の中でたびたび画工を悩ますヒロイン・那美のモデルだと言われている。小説の那美は一風変わった女性として描かれているが、当時29歳の卓子は2度の結婚に失敗し、自由民権の影響を受けた奔放な女性だった。卓子は漱石たちの接待を受け持ち、部屋へ料理やみかんなどを届けたり、青磁の皿にいれた羊羹(ようかん)を運んだりした。そうした中で、漱石は那美のイメージをふくらましていったのかもしれない。
また、画工が入浴していると、湯煙の中から那美が手拭いを下げて湯壺へ下りてくる…という有名な入浴の場面も、漱石の体験がもととなっている。卓子によると、あと片づけを終えた後に入浴し「女湯がぬるかったので、もう遅いから誰も入っていないと思って男湯にはいって行ったら、夏目さんと山川さんがいたので、あわてて飛び出した」というのが真相らしい。 「温泉や 水滑らかに 去年の垢」と詠むように、漱石は小天への旅をいたく気に入り、留学先のロンドンから山川信次郎に「小天行抔(など)思い出す」との便りを送っている。しかし、 「かんてらや 師走の宿に 寝つかれず」 と、旅に出たものの、一人残してきた鏡子を気遣う句を詠んでいる。亭主関白な明治の男であるが、夫婦の絆が伺える一句だ。

取材協力/夏目漱石内坪井旧居

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