幕末、新撰組の襲撃で起こった池田屋事件。その時散った肥後藩の志士物語
宮部鼎蔵生没年
1820年4月〜1864年6月5日
幕末、新撰組の襲撃で起こった池田屋事件。その時散った肥後藩の志士物語
宮部鼎蔵生没年
1820年4月〜1864年6月5日
幕末、肥後勤王党を率いた宮部鼎蔵は、文政3年(1820)4月、上益城郡木倉手永田代村(現在の御船町上野南田代)で宮部春吾・ヤソの長男として誕生。宮部家は肥後細川藩士の分家で、代々医家として地元の人々の尊敬を集める家柄であった。
鼎蔵は幼い頃から、細川藩士である野村家に養子に出た伯父・伝右衛門のもとに預けられる。伝右衛門は細川藩の世継・慶前の伝育役でもあり、慶前が23歳で死去した際は、鼎蔵の介錯を受けて追腹。その後は、藩の兵学師範になったもう一人の伯父・宮部丈左衛門の養子となり、山鹿流の兵学を学びはじめた。21歳の時である。
2人の伯父は、鼎蔵の教育に妥協せず、祖母の楽もまた礼儀孝道に厳しく、郷里の御船と熊本とを往復させて孝の志を育てた。家族に厳しく教育された鼎蔵は、30歳で熊本藩に軍学師範として召し抱えられる。
嘉永3年(1850)、鼎蔵にとって転機となる出来事が起きる。肥後を訪れた長州藩の吉田松陰が鼎蔵の元を訪れ、初対面にもかかわらず2日間も時勢について語り合い意気投合。アヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知り、西洋兵学の必要性を説く松陰の話に鼎蔵は深く感銘を受ける。
翌年、遊歴し諸国の志士と交友。やがて国学者の林桜園が開く「原道館」に入門し、国学古典の研究をはじめ、この頃から勤王の志を高めていくことになる。安政元年(1854)に松陰が海外渡航の決意を明かした時は、自分の愛刀と藤崎八旛宮(熊本市)の神鏡、そして「皇神の まことの道をかしこみて 思いつつゆけ 思いつつゆけ」という一首を贈り激励。安政の大獄で松陰が処刑される安政6年(1859)まで、2人は手紙を送りあい、国の行く末を語り、志を通じた。
松陰の処刑にうちひしがれた鼎蔵に、さらに追い打ちをかける出来事が起こる。門人の丸山勝蔵、鼎蔵の弟・春蔵(大助)らが藩士の子弟と乱闘を起こした、「水前寺乱闘事件」で罰せられるという事件が起こったのだ。責任を感じた鼎蔵は、自ら軍学師範役の地位を辞して、故郷に戻ることとなった。
その頃、数多くの志士が来熊し、諸国の志士が鼎蔵の元にも訪れている。その中に後の新撰組となる浪士隊を結成した清河八郎がいた。清河に奮起を促され、翌年、上京。公家や諸藩の志士と親交を深めた鼎蔵は、熊本藩にも進言し、藩議を尊皇攘夷に向けた。
同年、熊本藩主・細川護久の弟・長岡護美に伴い上京。文久3年(1863)には三条実美の下に設置された親兵2000人を指揮する総監に任命されるが、「八月十八日の政変」により事態は急変。幕府勢力が盛り返し、尊皇攘夷派は後退。鼎蔵は、三条実美をはじめとした7人の公家・七卿と共に京都から追放され、長州に落ちることとなった。
元治元年(1864)、再び京都に潜伏した鼎蔵は、筑後の真木和泉らと尊皇攘夷派の勢力回復を目指すことに。同年6月5日、同士20数名と三条小橋の池田屋で会談中、その情報を察知した会津藩・新撰組の幕府派に襲撃され奮闘するも自刃。この池田屋事件で志半ばのまま45年の生涯に幕を閉じる。
鼎蔵らが夢見た明治維新は、鼎蔵がこの世を去ってからわずか5年後のことだった。
取材協力/御船町教育委員会