シリーズ 熊本偉人伝 Vol.23  ( 旅ムック89号掲載 )
ごとう ぜざん
後藤是山

生涯一記者を貫き通した熊本最後の文人墨客

後藤是山生没年
1886年(明治19年)6月8日生誕〜1986年(昭和61年)6月4日没(享年99才)

短歌をたしなむ文学少年から文化に傾倒した新聞記者に

水前寺成趣園のほど近く、こんもりと森のように生い茂る庭木に囲まれた邸宅がある。徳富蘇峰によって「淡成居」と名付けられた家の主が、明治・大正・昭和の一世紀を生涯一記者として生き、熊本の文化の掘り起こしに尽力した後藤是山。昭和2年に建てられた住居は、そのままの姿で保存され、かつてあった3つの蔵には、是山の新聞記事や俳句、和綴じの蔵書など、膨大な資料が残されていた。さらに目を見張るのが、交流のあった俳人・作家などの著名人とやり取りした手紙、贈られた色紙、短冊、写真、掛け軸の数々。一地方の新聞記者であった是山の交友関係の広さ、深さに、圧倒されるものがある。
是山は明治19年(1886)、大分県直入郡久住村(現:竹田市久住町)に、父・萬太郎、母・リクの長男として誕生。本名は裕太郎という。後藤家は代々久住神社の神官を務め、跡取りとして大切に育てられた。 文学への傾倒は幼い頃から始まり、祖父や父からは漢学を学び、九州日日新聞(熊本日日新聞の前身)に目を通す文学少年であった。中学の頃には短歌を詠み始め、懸賞短歌に応募し入賞したという。偶然にもその時の選者が、後に生涯にわたって短歌の師として交流を続けた与謝野晶子であった。 是山が新聞記者への憧れを強めたのは、兄のように慕っていた5歳年上の筑紫久嶺の存在が大きい。久嶺は一時期新聞記者をしており、明治37年(1904)、1月に23歳の若さで夭折。同年、日露戦争旅順港閉鎖作戦で戦死した竹田出身の広瀬中佐の葬儀において、九州日日新聞の主筆・小早川秀雄の弔辞に感動し、その姿に久嶺の面影を重ね、その志を継ぐ決意をした。

多彩な人脈を築いた蘇峰のもとでの記者修行

明治40年(1907)、早稲田大学予科文科入学するも、翌年、継母の看病をするために大学を休学し帰省。継母は小康を得るが、結局は大学を中退し、久住尋常高等小学校の教師となる。しかし、新聞記者への思いは断てず、地元生まれの工藤幹と結婚することを条件に、新聞社への入社試験を受ける。この時、受験したのが熊本と福岡の新聞社。両社ともに合格したが、久住は江戸時代まで肥後細川藩の領地であったことから、「お城下へ行く」と熊本行きを決断。大分県生まれではあるが熊本県人としての意識が強く、明治42年(1911)、九州日日新聞社に入社する。
明治時代の新聞は政党の機関紙的要素が強く、天下国家を論ずる男子は文学などに傾倒すべきではないといった風潮があった。文学青年の是山にとって憧れていた新聞社と、現実の新聞社との差があまりにも大きく、一年足らずの内に幻滅を覚えていく。東京に出て修行をしたいと考えていたところ、是山の意を察知した社長・山田珠一は、自ら是山を伴い、東京で徳富蘇峰が率いる「国民新聞社」で指導を懇請。記者としては蘇峰の直接の指導を受け、文芸面では蘇峰の弟・蘆花をはじめ、高浜虚子、与謝野晶子など当時の有名文士の感化を受けることとなった。
是山という新聞記者としての雅号は、「碧巖録」という仏典の「山は是れ山。水は是れ水」から取ったものだが、最初の号は蘆花の一文字を使い「蘆葉」にするほど蘆花のファンだったという。

文学や芸術、演劇から歴史まで熊本に文化の新風を送り込む

東京での是山は、「文化・文芸向きの記者として大成する」と蘇峰からの言葉を受け、水を得た魚のように記者修行に没頭。2年間の修行を終え、九州日日新聞社へ復職した是山であった。政治・経済は硬派、社会面は軟派、文化・文芸欄は色物と呼ばれる風潮は変わらなかったが、編集を任せられるようになり、国民新聞社時代に知り合った東京の名士を文芸欄に登場させた。
例えば、高浜虚子を俳壇の選者、与謝野鉄幹・晶子夫妻を歌壇の選者に依頼し、堅山南風や北原白秋の作品を登場させ紙面を充実。島村抱月・松井須磨子が主宰する「芸術座」の熊本公演、旧制竹田中学以来の友人である朝倉文夫の彫塑展、横井小楠の墓前祭など、演劇や芸術、歴史に関する催しを紙面で紹介し、熊本の人々に文化の風を送った。
与謝野鉄幹・晶子夫妻、高浜虚子、坪内逍遙、徳富蘆花・愛子夫妻、若山牧水・喜志子夫妻、田山花袋など、文筆家、画家が来熊した際は自ら案内役を務め、阿蘇や生まれ故郷の久住を案内し交流を深めていった。大正11年(1922)、阿蘇外輪山の遠見ヶ鼻に登った徳富蘇峰が「大観峰」と名付けたのは有名なエピソードだが、その時に案内したのは是山だったという。
また、古墳調査に出かけ、破壊されていく文化財保護の緊急性について啓蒙する記事を連載。さらに、幕末の肥後の勤王家から神風連の乱までを記述した「肥後の勤王」、郷土史を学ぶ人の必読書となっている「肥後国誌」の編集編纂に取り組むなど、記者として脂の乗った30代を迎える。
努力の甲斐があり読者には好評を得る。是山の編集方針に新聞社内外からの反発もあったが、よき理解者である山田社長の後ろ盾が大きかったといえる。

25年の新聞社生活に幕を閉じ文人墨客として生きた一世紀

昭和9年(1934)、入社当時から是山を引き立て、才能を発揮する場所を与えてくれた山田珠一が死去。新しい社長より「君は明日から出社せんでもいいぞ」と辞職を迫られた。社内は混乱し、同僚26名による連判状が提出され辞職勧告の撤回と復職を求める騒動が起きるが、是山はあっさりと25年の記者生活に別れを告げた。
しかし失意にくれることなく、同年11月には旬刊誌「東火」を発刊。
終戦後は「武滅び文興る」と新聞発行に取り組み、昭和20年(1945)、還暦を目前に旬刊新聞「西海時論」を発刊。編集者生活を再開する一方で、熊本県文化財専門委員に就任し、「熊本市制70年史」「熊本県史」の編纂を依頼されるなど、70歳を過ぎても、依然として地域の歴史・文化の掘り起こしに務め、熊本における文化面の啓蒙に貢献し続けた。
昭和41年(1966)には、夏目漱石の「草枕」に登場する峠の茶屋跡を野出の茶屋であることを断定。昭和3年(1928)、夏目漱石13回忌に当たり未亡人鏡子、娘の夫・松岡譲が熊本を訪れ「草枕」をめぐる旅を一緒にして以来、約40年かけて調べ上げた上での悲願成就となった。
損得には一切こだわりなく、古巣の新聞社からの問合わせや、生まれ故郷の久住関係者から頼まれればどんなことでも引き受けた是山。昭和2年(1927)に移り住んだ水前寺の「淡成居」で、昭和61年(1986)6月4日、99歳で死去。100歳の誕生日まで4日足らずであった。
新聞記者時代から一貫して和服姿を通し、温厚で温和。その飄々とした人柄で、明治の俳人から市井の人々まで、出会った人を引きつけてやまなかったのだろう。
「自分は単なる歌人ではない。また、単なる俳人でも、単なる郷土史家でもない。ひたすら俗塵の中に生きつつ世を嘆く老記者、老書生でありたい」と常々語り、郷土史や俳句などは趣味だと語っていたという是山。近代俳句の普及に大きく貢献したにも関わらず、自身の句集を発行したのは97歳の時に発表した「東火抄」のみ。あくまでも一記者、そう願った是山の想いは、熊本が誇る歴史や文化に脈々と息づいている。

取材協力・写真提供/後藤是山記念館

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