シリーズ 熊本偉人伝 Vol.20  ( 旅ムック86号掲載 )
熊本城と隈本城

茶臼山に築かれた三つに城。そこに関わった城主たち

熊本が誇る名城・熊本城

日本三名城の一つとして鎮座する熊本城。熊本のシンボルとなるその礎を築いた功績者として、加藤清正の名を挙げる人は少なくない。彼は名実共に優れた武将であり、河川やその他の土木事業に残した功績も大きく、熊本市が城下町として栄える基盤を築いてきた人物である。
だが、清正が城主となる前に、熊本城の前身となる城を築城しそこに居城していた人物がいたことをご存知だろうか。表舞台になかなか取り沙汰されることのない、熊本城の知られざる裏側を紐解いてみる。

茶臼山に築かれた出田氏の千葉城

現在の熊本城は海抜50mほどの高さにある茶臼山と呼ばれる山全体を取り込んで造られている。古代末期から中世にかけては、その山の一部分に、小さな城砦を構えただけのものが建っていた。それが、熊本城の前身となる「隈本城」である。隈本城という名は、古くは南北朝時代の古文書で見受けられるが、実際の位置と城主が明らかになるのは、15世紀後半。千葉城と呼ばれる隈本城が建てられた頃になってからだ。
千葉城の最初の城主は、菊池氏の一族、出田秀信であった。応仁年間(1467〜)に、現在のNHK熊本放送局(熊本市中央区千葉城町)がある一帯に本丸を築いたとされている。秀信は山城守で、この一帯80町の領地を所有していた。だが、文明17年(1485)に守護菊池重朝に従って相良・阿蘇の連合軍と戦い、御船陣原で戦死。それを受け、当時、楠原城(現熊本市北区北部町)の城主であった鹿子木親員、別名・寂心が、新たに千葉城に入ることとなった。明応5年(1496)のことである。

古城と呼ばれる鹿子木氏の隈本城

千葉城に入ったものの、元は560町を持つ大豪族であった寂心。80町の領主が築いた城は彼には狭すぎた。そこで彼は、茶臼山の西南隅の丘陵に新しく城を築くことにした。そこは北・西・南の三方が湿地帯や池沼の自然要塞であり、今では古城と呼ばれる隈本城である。武将としてだけでなく、和歌の嗜みも深かったという寂心。その後、神社仏閣の再興にも力を尽くし、藤崎宮の改築や河尻大慈禅寺の再興を助けている。しかし、その曽孫の時代に大友宗麟の怒りを買い、隈本城を退去することとなった。
その後は菊池氏の一族である城親冬が入り三代続くが、豊臣秀吉の九州征伐で戦わずして城を明け渡す。その後、秀吉は九州を平定。彼は越中国の領主であった佐々成政に城を与えた。だが、成政の政治不満から一揆が起こってしまう。一時は隈本城も包囲されるほどの規模にまでなり、成政は責任を取る形で切腹に至る。隈本城は、次の領主へと明け渡された。その人物こそが、加藤清正である。

加藤清正の熊本城

慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の後、一気に肥後52万石の領主となった清正は、要塞としての機能を高める為、翌年、千葉城・隈本城を含む茶臼山全域を取り入れた近世城郭への改修を始めることとなる。白川・坪井川の流路を改修し外堀・内堀としての防御機能を持たせ、城下町を整備拡張。またこの時、隈本の「隈」の字を好ましくないとして、雄々しい感じの「熊」に改め、新たに熊本城と呼ばせることとした。
着手を始めてすぐに天草征伐や朝鮮出兵、名護屋城の築城などで4年半もの在外生活が続いた清正であったが、熊本にいる間は自ら指揮を取っていたと言われる。
清正の後に領主となった細川氏も、寛永9年(1632)細川忠利の入国によって始まるが、大政奉還の日に至るまで、200有余年に渡って肥後熊本の政治を行った。江戸時代に入り平安な世の中になり、歴代の細川城主は小さな改修は加えたものの大きな改修はしなかったため、城全体としての遺構はほぼそのままで残っていた。残念なことに明治に入り西南戦争で城の大半が焼失した熊本城だったが、当時の雄々しい姿を取り戻すべく現在も復元・保存され市民から愛され続けている。

参考文献/熊本城(藤岡通夫著)
     熊本の風土とこころシリーズ10熊本の城(熊本の風土とこころ編集委員会著)
     熊本城 歴史と魅力(富田紘一著)
     歴史群像 名城シリーズ②熊本城(株式会社学習研究社刊)
     定本熊本城(株式会社郷土出版社刊)

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