九州首府を目指し新市街地造成の大事業を成し遂げた第3代熊本市長
1854年(嘉永7年)5月10日生誕〜1913年(大正2年)5月22日没 享年60
九州首府を目指し新市街地造成の大事業を成し遂げた第3代熊本市長
1854年(嘉永7年)5月10日生誕〜1913年(大正2年)5月22日没 享年60
熊本市の中心市街地の一角に、一年を通して水と緑あふれる市民の憩いの場「辛島公園」がある。目の前には、熊本のバス交通の基点となるターミナルや大型商業施設がそびえ、まさに市街地の核ともいえる地区、辛島町。この町名は、ある一人の熊本市長の業績を称えて名付けられた。第3代熊本市長・辛島格である。43歳の若さで熊本市長となると、3期にわたり約16年の任期を努めた辛島。その間、陸軍山崎練兵場を移転し、跡地に市街地を造成するという大事業を成し遂げた。これが、その後の熊本市発展の土台になっていることは言うまでもない。 今回は、激動の明治から大正にかけて熊本市街地の発展に尽力した、辛島格について迫ってみたい。
辛島は嘉永7年(1854)5月10日、熊本市塩屋町(現:熊本市中央区塩屋)に肥後藩士・辛島多禧次の三男として生まれた。儒学者で藩校時習館教授の辛島塩井を祖父に持つ彼は、幼い頃から時習館で学び、頭角を現していたという。 その後、熊本師範学校監事や八代の郡長を経て、第3代熊本市長に就任したのが明治30年(1897)のこと。熊本市は明治22年(1889)4月に市町村制が施行され全国31の市の一つとして誕生したが、辛島が就任した頃の熊本市はまだ城下町の様相を呈しており近代都市化に向けた都市改造が前市長からの課題の一つだった。中でも問題だったのが、熊本市の中心部にあった陸軍山崎練兵場の移転である。城下町時代、西南戦争で焼失し軍用地として練兵場などが設置されていた山崎町は、当時の商業中心地であった古町と坪井町を南北に分断する位置にあり、熊本市の発展を妨げていたのである。 辛島は5万5千坪あった山崎練兵場の代替地として、大江村内(現:熊本市中央区渡鹿付近)の7万坪の土地を提供するべく陸軍省との交渉にあたるが、同省は移転費用の全額負担など18項目にも渡る厳しい条件を提示し交渉は難航。しかし粘り強く交渉した結果、明治31年(1898)には妥結して移転が認可された。 新しい市街地を作るべく道路開通や土地整備など着々と工事を進めていくと同時に完成後の造成地売却も始められたが、明治33年(1900)には県下全域が大洪水に襲われ、さらには日清戦争後の好景気の反動で金融恐慌が吹き荒れ倒産が相次ぐなど土地売却も低迷。行き詰まるかに見えた練兵場移転だったが、辛島は熱意と創意工夫をもって全身全霊でこれに取り組み苦難を乗り越えた。そしてついに山崎新市街が完成、明治36年(1903)のことである。
山崎練兵場跡地に造られた新しい市街地「山崎新市街」には陸軍予備病院や専売公社、銀行などが建ち商店も増え繁華街が形成されていく。そして明治41年(1908)には熊本市会で新たな町名地番が設定され山崎新市街は行幸町、天神町、桜町、花畑町、練兵町、そして、辛島の功績を称え「辛島町」の町名が付けられた。本人が熊本市長在職中のことである。 辛島にとって都市とは、単に人口が集中した場所を指すのではなく、地方の政治経済の中心地であり、そこには「都市的協同生活の精神」が発揮されなければならないという考えがあった。都市の整備については、上・下水道、公会堂、公園、市庁舎および市会議事堂改築の5事業を挙げ、事業費の概算や捻出方法を提示している。そのうちの上・下水道の整備については、八景水谷地区を水源地とし、配水池を立田山に設置する計画が出された。しかし、反対運動により事業は難航。この案件は、第7代熊本市長・高橋守雄にまで引き継がれている(旅ムック117号熊本偉人伝参照)。
当時にして三十四万六千五百十九円の金額をかけて行われた都市改造計画事業。すべて市の公債でまかなわれ、市の土地を売却しながら大正2年(1913)に完済した。同年、辛島は病気の為に退職する際にこの事業の遂行が前途多難であったことに触れ、無事に乗り越えられたのは社会の進歩によるところも大きいとしている。辛島は退職した4ヶ月後の5月に60歳にて逝去。辛島の死から12年後の大正14年(1925)、辛島の市政改革の精神は長男の知己にも受け継がれ第8代熊本市長に就任。熊本市電の第2期線の開通や市営バスの設置などの交通インフラの整備から、熊本市動植物園の開園に至るまで、様々な事業を成功に導いた。これらは今の熊本市の発展に大きな影響を与えている。
肥後辛島家のひとびと(熊本県企画振興部 編集発行)
新市街100年(窪寺雄敏 著)
熊本市長辛島格の市区改正(水野公寿 著)
熊本百年の人物誌(熊本日日新聞)
熊本の100人(熊本日日新聞)