シリーズ 熊本偉人伝 Vol.16  ( 旅ムック82号掲載 )
かとうきよまさをあいしたおんなたち
加藤清正を愛した女たち

最新の研究によって浮かび上がった五人の妻と五人の子供たち

熊本城おもてなし武将隊 八十姫(やそひめ)

知られざる清正の家族と素顔

築城の名手・土木の神様として、また肥後五十四万石の礎を築いた名将として熊本の民に親しまれている加藤清正。しかし、その妻子については不明な点が多く、親子関係においては様々な説が囁かれている。近年、数々の歴史的史料に基づいた研究で明らかとなった家族関係、また新たに発見された資料からは、肥後国を守ることを第一義とし、家族を愛した清正の新たな素顔を垣間見ることができた。

近年存在が明らかになった、苦楽を共にした糟糠の妻

清正が大名になる前から連れ添った最初の妻。その存在は、主君である豊臣秀吉の朱印状から、近年明らかになった。摂津三田城主であった山崎家の出身で、清正との間には嫡男・虎熊を設けている。虎熊もまた、母と同様に存在を知られていなかったが、朝鮮出兵の際は父・清正に呼び寄せられ出陣したとの記録が発見されている。
山崎氏は清正が文禄の役で日本を離れている間に病を得たとみられ、その容体を伝える書状への返書には、清正の大きな動揺が見て取れる。なお、山崎氏が亡くなるまでの十数年、清正に他の女性の影は見えない。愛情深く誠実な夫婦関係を築いていたと考えて良いだろう。

朝鮮出兵にも付き従い、姫君を宿した最初の側室

山崎氏と虎熊の死を受け、加藤家の存続に危機を覚えた清正が娶った側室、淨光院(竹之丸殿)。熊本県菊池地方の赤星氏に出自があり、慶長の役の際には、清正とともに朝鮮の居城で暮らした。懐妊した竹之丸殿は、朝鮮撤収の途中、玄界灘の島にて姫君を産む。この姫は、海女に取り上げられたことにより、「あま」と名付けられた。
朝鮮撤収の混乱の中で生まれたあま姫は、9歳の時に徳川家重臣の舘林城主・榊原康勝に嫁ぐ。その輿入は、美しく着飾った腰元が100人近くも付き従う絢爛豪華なものであった。また清正の自筆による婿・康勝への書状には、賄いや贈り物に関する細々とした指示が記されており、加藤家の威信をかけた結婚に向けての意気込み、娘を案じる濃やかな想いを感じることができる。あま姫(舘林時代はこや姫と改名)自身は大変美しい女性だったようで、夫である康勝からのラブレターが発見されたほか、異母弟・加藤忠廣による歌集にも麗しい姿が描写されている。後に老中を多く輩出した阿部家に再嫁すると、命と引き換えに息子・正能を生み、加藤家の血筋を徳川の治世に遺した。

過酷な大坂脱出を乗り越え、清正亡き後の精神的支えに

清淨院(かな姫)は、徳川家康の養女として清正に嫁いだ正室である。関ヶ原の合戦直前には、西軍から逃れるため、大坂の屋敷から密かに脱出。船底に隠れて海を渡り、険しい山を越えて肥後に辿り着き、人質を免れ清正を助けた。以前の研究では「清正は徳川の娘である清淨院を警戒していたため、夫婦仲は悪かった」と信じられていたが、それは大きな誤りであったことも判明している。熊本城で娘と共に清正の臨終を看取った後は、加藤家の要として、家臣団を陰から支えた。晩年は配流された孫娘を助けるべく尽力するなど、慈愛に満ちた人柄が偲ばれる。
清正と清淨院との間に生まれた次女・八十は、熊本生まれの熊本育ち。「八十」という名には「九(苦)がないように」という両親の願いが込められている。17歳で徳川頼宣に嫁ぐが、50年連れ添った頼宣との夫婦関係は極めて円満であった。姫自身の姿も描かれた「江戸天下祭図屏風」を贈られるなど、晩年まで仲睦まじく暮らしたと伝えられている。自身は子に恵まれなかったが、国母として二代光貞の養育に励むなど、紀州徳川家の基盤を築いた。孫の徳川吉宗(徳川家八代将軍)は、血は受け継いでいないものの清正を曾祖父として尊崇し、清正の遺物や記録に親しんだという。

唯一熊本に眠る、謎の多い 川尻の妻

5人の妻のうち、唯一熊本に墓と菩提寺を持つ本覺院は、肥後第一の軍港であり問屋街としても栄えていた川尻の宿泊所(川尻茶屋・川尻屋形)に居を構えていたことから、川尻殿と呼ばれていた。彼女が産んだ息子・忠正は、長男・虎熊が亡くなって以来の男児誕生であり、加藤家待望の跡取りとして大変喜ばれた。利発な忠正は、わずか8歳で徳川家二代将軍・秀忠にお目見えするなど、大きな期待をかけられていたことが伺える。しかし、加藤家の未来を一身に背負っていた少年は、疱瘡にかかり9歳で夭折してしまう。深く悲しんだ清正は、夢枕に立った忠正の言葉に従い、八代に菩提寺を建立。手厚く弔った。

二代目生母の栄華から配流へ、浮沈の人生を歩んだ女性

正應院は、加藤家の二代目藩主となった加藤忠廣の生母である。出自は阿蘇、玉目郷というのどかな里であった。嫡男を生むために召し抱えられた正應院は、見事に男児を産む。そして、夭折した虎熊(長男)、忠正(次男)に次いで江戸に入るが、その4年後に清正は急逝。後継者の育成、家臣団の体制を整える間もなく、大黒柱である清正を失った加藤家。そこで二代目として家督を継いだのが忠廣であった。しかし、家臣による揉めごと、忠廣の嫡男・光正による謀書事件、忠廣自身による軽率な行動によって加藤家はとうとう改易の憂き目にあってしまう。忠廣は配流先の庄内で53歳の生涯を終え、この死をもって加藤家は断絶された。
正應院自身も息子と共に庄内へ配流されることになり、かの地で静かな余生を過ごしたという。

加藤清正は戦国武将として名を馳せ、築城・土木で数々の功績を挙げているのは周知の通り。しかし、加藤家が2代で改易された事もあり今なお妻子に関しては不明点も多い。新たな歴史的史料の発見に基づき妻子に関する新発見は今後も続いていくだろう。

取材協力/歴史研究家・加藤家研究家 福田正秀氏
参考文献/加藤清正「妻子」の研究(水野勝之・福田正秀著)
     続加藤清正「妻子」の研究(水野勝之・福田正秀著)

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