熊本の藩政改革を主導した名君
「肥後の鳳凰」が行った宝暦の改革
享保5年(1720年12月26日)生誕〜
天明5年(1785年10月26日)没 享年66
熊本の藩政改革を主導した名君
「肥後の鳳凰」が行った宝暦の改革
享保5年(1720年12月26日)生誕〜
天明5年(1785年10月26日)没 享年66
鳳凰とは、聖人が生まれると出現するといわれる中国古代の想像上の瑞鳥のこと。「肥後の鳳凰」と呼ばれた熊本藩主6代・細川重賢は、当時ひっ迫していた藩の財政再建に奮闘し、同じく紀州藩で財政再建を行っていた9代藩主・徳川治貞とともに「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と呼ばれ並び賞された名君である。 重賢は享保5年(1720)、4代藩主・宣紀の五男として江戸の藩邸で生まれた。当時の江戸幕府は8代将軍・徳川吉宗による享保の改革時代の真っ只中。正式な後継ぎではなかった重賢は、幼い頃から部屋住み生活で苦汁をなめていたという。川泳ぎをすればふんどしが乾くまで帰られない、蚊帳の修繕を自分でする、大切な羽織を質に入れ、欲しい本を手に入れるなど、数々の逸話が残されている。 そんな重賢に転機が訪れたのは延享4年(1747)熊本藩5代藩主の兄・宗孝の急死で家督を相続することとなり、28歳で思いもしなかった6代藩主となるのである。以後、様々な藩政のテコ入れを行うことになるが、その際、幼少時代からの経験や俗世の実状、目の当たりにしてきた吉宗の政策が少なからず影響を及ぼしていたことは、想像するに難くない。
家督相続時の藩の財政は、3代藩主・綱利が積極的に行った文化事業をきっかけに、毎年10万石近い赤字に苦しんでいた。そこに凶作等も重なり、米作中心だった藩の情勢はさらに悪化。財政難で参勤交代もままならず、俸禄は遅れ、役人たちはまともに働いていなかった。 藩主となった重賢はまず組織の改変に挑む。主従間の礼儀を見直す「申聞置条々」五ヶ条を出して、権力争いや他人の功を奪うことを禁じて規則を守るにように諭した。また、政を行うには人が重要だと考えていた重賢は若手ながら才能がある堀平太左衛門を大奉行に抜擢。彼は以後、重賢の右腕として共に改革政治を展開していく要の人物となる。 宝暦4年(1754)、重賢は藩の将来を担う人材を育成するため、身分の上下に関わらず入学できる藩校「時習館」を熊本城二の丸に設立し、また武術にも励むようにと修練場も設け文武両道を推奨。のちに時習館からは熊本藩士で儒学者の横井小楠や、政治家の井上毅を輩出している。さらに翌年には日本初の公立の医学校「再春館」を、その翌年には薬草園「蕃滋園」を作った。それぞれ、今の熊本大学医学部と薬学部の前身である。
藩の収入体制の見直しに着手した重賢は、年貢米だけに依存していた収入を別の収入からも得ろうと、ろうそくの原料となる櫨の植樹を促し、和紙の原料となる楮を植えた。また、養蚕などの産業も薦め、これらの産業を専売とすることで、藩により多くの利益を生み出すことにも成功する。 一方で藩内の生活は節約を薦め、重賢自らがその見本となった。役人の俸禄を減らす代わりに税負担を軽減し、新たに検知を行い「隠し田」を摘発するなど、農民の不公平感を解消し、年貢の増収を図る。 さらに、刑法の改革にも乗り出して日本初の刑法典「刑法草書」を制定、行政と司法を分離した。それまでは死刑か追放刑が主だったものを追放刑は再犯に走ると見直しを行い、軽い者にはむち打ち刑、重い者には藩の作業所にて働く懲役刑とに分け、罪人に入れていた入れ墨を撤廃して社会復帰を促した。当時としては非常に先進的な内容で、後の明治政府の刑法にも影響を与えたほどである。 こうして、様々な手腕を発揮した重賢の功績により、三十数年の月日をかけて藩の財政は好転。「宝暦の改革」と称され、「肥後の鳳凰」の異名が全国に知られていった。
政治手腕も発揮していた一方、乗馬や鷹狩りを好み、短歌や俳句、詩、茶道にも精通し文化人としても知られていた重賢。特に無類の博物好きとして、鳥や昆虫、動物や植物などに造詣が深く、当時の動物の記録を詳細に記した「毛介錡煥」をはじめ、「鳥類図譜」や「昆虫胥化図」などの図鑑、押し葉標本の「押葉帖」など、独創的な図鑑や標本など貴重な資料の数々が今も残されている。 天明5年(1785)12月26日、66歳でこの世を去った重賢。彼が進めた文教政策は、江戸中期藩政改革の好例とされ、米沢藩主・上杉鷹山が参考にしたと伝えられる。人を育てることが未来に繋がるとの重賢の思いは、その後熊本から多くの教育者や思想家、医学者などを輩出。令和の今でも人づくりがあらゆる改革を進める上で大切なことではなかろうか。
博物図譜草稿(菊図)(熊本博物館所蔵) 細川重賢所用の駕籠机引き出しに収められていたものの一部。重賢は動植物図譜を作らせるなど、博物学に熱心に取り組んだ大名の一人として知られる。
細川重賢所用駕籠机(熊本博物館所蔵) 細川重賢が参勤交代などの道中、駕籠内で使用したと伝わる机。天板は開閉可能。
細川重賢像 秋山玉山賛(出水神社所蔵) 重賢の肖像とともに秋山玉山の賛がある。秋山玉山とは肥後藩主・宣紀、宗孝、重賢に仕えた儒教家で藩校「時習館」設立を建白し初代教授(学長)となった人物。
細川重賢座像 高さ1m程の座像。三賢堂に安置されている。
銀台(重賢)公尊筆(出水神社所蔵) 李白「送友人」の一節を書いたもの。「浮雲遊子意 落日故人情」(あの浮雲は、行方定めぬ君の心であり、西に沈む夕日は名残つきない私の気持ちを表している)
時習館跡の碑 熊本城二の丸に作られた藩校「時習館」は明治3年の藩政改革ののちに廃止となった。
肥後学講座Ⅲ(「熊本城400年と熊本ルネッサンス」県民運動本部編)
郷土読本 夢の実現を ふるさとくまもとの人々(熊本市教育委員会発行)
熊本スピリッツの源流(熊本スピリッツ運動推進協議会発行)
加藤・細川ヘリテージ熊本遺産物語(熊本県文化企画・世界遺産推進課発行)