先人より受け継いだ博愛慈善の精神「医は仁術」に徹した「熊本の赤ひげ先生」
1844年(弘化元年)3月17日生誕〜1917(大正6年)3月8日没 享年74才
先人より受け継いだ博愛慈善の精神「医は仁術」に徹した「熊本の赤ひげ先生」
1844年(弘化元年)3月17日生誕〜1917(大正6年)3月8日没 享年74才
西郷隆盛を主人公にした大河ドラマが熱を帯びている。ただ、そこで描かれる日本最後の内乱である西南戦争に、熊本出身の外科医師が深く関わっていることはあまり知られていない。そしてその医師が確固たる人道主義の下、薩摩軍(薩軍)・政府軍(官軍)・一般市民を分け隔てなく救護したという事実も。この事は熊本の地において、人道主義に基づく医療による博愛精神が具現化された瞬間である。それは図らずも、日本赤十字社の前身となる博愛社が誕生するより約3ヶ月前のことであった。その先駆けとなる活動をした人物こそ、先人からの教えを受け、生涯に渡り医療を通して福祉への貢献、慈愛に満ちた活動、貧困者への救済に従事した、八世・鳩野宗巴である。 鳩野家の起こりは寛永18年(1641)に長崎で生まれた一世に始まる。幼少の頃から出島のオランダ館に出入りし、西洋医学に関心を持つようになった一世は、鎖国中にも関わらずオランダへ密航、5年ほど医学を学んで帰国した。その後、肥前藩で飼われていた鳩の傷を治療したことで「鳩の医者」と呼ばれるようになり、中島と名乗っていた姓を「鳩野」に改名したと言われている。以来、代々「宗巴」を襲名し、二世の時に招聘され細川家の藩医として活躍した鳩野家。中でも八世・宗巴の父となる七世は、熊本市浄行寺(現在の妙体寺町)の広大な自宅敷地に医院(活人堂)、病室(養生軒)、医師養成の私塾(亦楽舎)を構え診療を行うと共に医学生の育成にも力を尽くしたことで知られている。
八世・宗巴が生まれたのは、弘化元年(1844)。名を長貴といい、幼少の頃から七世に従い代々伝わる「医は仁術」の教えの元、医術を学ぶ。父が亡くなると若干19歳で家業を継ぐこととなったが、その働きぶりは高く評価された。 明治元年(1868)、25歳の時に戊辰戦争が起こり、新政府軍の熊本一番隊医長として上野戦争に参戦。横浜軍陣病院でオランダ人の慈善医師ウィリアム・ウイルスに出会い、敵味方の区別なく治療にあたる現場を目の当たりにする。またその際、直接的な実技はシドール医師に学んでいる。彼らとの出会いは、宗巴のその後の生き方に大きく影響したと考えられ、後に起こる西南戦争での「医は仁術」に沿った行動に表れていることは、言うまでもないだろう。 明治10年(1877)宗巴34歳の時、日本最後の内乱と言われる西南戦争が勃発。半年にわたり熊本の町は戦火にさらされ、市民の多くが田舎へ疎開した。鳩野家も例外ではなく、妙体寺町の自宅と医院が焼失し、拜聖庵(のちの拜聖院)という寺に避難した。 そんな中、薩軍に加勢した熊本隊の隊長・池辺吉十郎が宗巴の元を訪れ負傷者の救済を求める。宗巴は、薩軍だけでなく相手の官軍、そして一般市民も負傷者であれば分け隔てなく治療ができるなら引き受けると答え、池辺もそれを受け入れた。 その数はたちまち200人を超え、小学校や民家、寺なども自費で借り上げて手当てにあたる。当時は宗巴を中心に11人の医師たちが荷担チームとなって負傷者の救済にあたった。その後、八世は薩摩軍の肩入れをしたとして後に軍事裁判にかけられたが、毅然とした態度で信念を語りこれまでの功績もあいまって無罪判決となっている。
協 力/日本の赤十字活動発祥の地を顕彰する会、熊本市役所文化振興課
参考文献/南戦争と鳩野宗巴(日本の赤十字活動発祥の地を顕彰する会発行)、八世鳩野宗巴没後百年記念誌(日本の赤十字活動発祥の地を顕彰する会発行)、郷土読本 夢の実現を ふるさとくまもとの人々(熊本市教育委員会発行)、(平成7年度)尚絅公開講座・講義録(尚絅学園発行)、史叢第7号(熊本歴史学研究所発行)