シリーズ 熊本偉人伝 Vol.41  ( 旅ムック111 )
かわかみ てつはる
川上 哲治

「打撃の神様」と呼ばれた背番号16、名選手でもあり名監督でもあった昭和のスーパースター

1920年(大正9年)3月23日生誕〜
2013年(平成25年)10月28日没 享年93

貧困時代に救われた野球、逆に悩み苦しんだ学生時代

昭和11年(1936)に7球団でスタートした日本の「プロ野球」。世界でも活躍するスター選手が続々と生まれる昨今、その原点を辿るのに「打撃の神様」こと、川上哲治を忘れてはならないだろう。小学生の頃から才能が開花し甲子園に出場、プロになってからも輝かしい成績を収め、監督時代に残した「読売巨人軍9連覇(V9)」の偉業は今も燦然と輝く。川上哲治生誕百年となる今年に、選手としても指導者としても一流であった彼の人生を振り返ってみたい。 川上哲治は大正9年(1920) 3月23日、熊本県球磨郡大村(現・人吉市)で川上伊兵次・ツマの長男として生まれた。家は船宿を営む裕福な家庭だったが父親の代で急落、生活が貧しくなり小学生時代は食べ物を売り歩いて両親を手伝っていたという。 そんな彼が野球と出逢ったのは5歳の頃、父から布製のボールを与えられその手ほどきを受けた。大村尋常高等小学校(現・人吉西小学校)4年生には野球部に入部、その年の九州大会で決勝打となるホームランを放ち、5年生の頃は、エースで4番を務めるほどだった。その後、野球部のある熊本県立工業学校(現・熊本工業高校)へ進学を決意するも、勉強と野球、どちらを生活の中心に据えるべきか悩み、苦しみ続けた。中退して野球部の無い熊本県立濟々黌高等学校に進学し直すが、心が荒れ、結局、人吉へ戻ることとなった。

野球人生を歩む契機、名捕手との出逢いからプロへ

人吉中学校(現・人吉高校)に転校した哲治だが、先輩や野球部長からの強い説得もあり再び熊本工業高校へ転入し野球を続ける道を選ぶ。そこで出会ったのが、後のバッテリー相手となる名捕手・吉原正喜である。再び投手として野球に打ち込むと昭和12年(1937)夏の甲子園全国大会への出場を勝ち取り、決勝戦まで進むも惜しくも準優勝で終わってしまった。その際、ひと握りの砂を持ち帰ったとされ「甲子園から砂を持ち帰る」慣例を作った人物という説も残されている。 高校卒業後は就職する予定だった哲治だが、「九州ナンバーワン」と称されていた吉原捕手が読売巨人軍からスカウトされた際「川上も一緒なら」と推薦され、哲治は支度金三百円、月給百十円という好条件で入団を決意。一家の大黒柱でもあった彼は契約金全額を家に入れ、月給をもらうようになると半分を仕送りしたという。 当初は投手として入団した哲治だがバッティングの才能が認められ一塁手に転向すると、ホームラン王、最高殊勲賞、首位打者、打点王など輝かしい成績を残した。しかし、翌年の昭和17年(1942)から第二次世界大戦が激化し、陸軍召集で野球を中断。昭和20年(1945)に終戦を迎えると、人吉へ帰郷し働けない父の代わりに母とともに農業を営んだ。

球が止まって見えた境地、史上初の二千本安打達成へ

人吉へ帰郷中も巨人軍から強い復帰の誘いがあった哲治は、十分な契約金を準備してもらうことを条件に再びプロ野球に戻る決意をする。戦前から変わらず、彼の根底にあるのはいつも「一家8人の生活を守ること」だった。終戦直後であってもプロ野球は大変な人気を集め、復帰した哲治が愛用していた「赤バット」はブームの火付け役であった大下弘選手の「青バット」と共に戦後復興の象徴となり、昭和24年(1949)には戦後初の優勝を飾った。 順調な野球生活を送っていたが、監督が変わったことの精神的な事も影響してかスランプに陥った哲治。なんとかスランプを脱しようと真夏の多摩川グラウンドで打ち込みを続ける中で、俗にいう「球が止まって見えた」境地に入ったのはまさにこの時だった。「打撃の神様」が覚醒した瞬間である。スランプを脱した昭和31年(1956)5月31日の中日戦でついに史上初の二千本安打を達成する。しかし、体力の衰えを感じ2年後に現役を引退。彼が背負った背番号16は巨人軍の永久欠番となった。

「打撃の神様」からチームプレーのV9指揮官へ

引退後の昭和36年(1961)に巨人軍監督に就任すると、米大リーグドジャースの戦法を採用し徹底したチームプレーを優先するスタイルを築いた。王や長嶋をはじめ、金田、堀内など数々の一流選手を育て、昭和48年(1973)までに11回のリーグ優勝を果たしその全てで日本シリーズを制覇。特に、昭和40年(1965)から昭和48年までの日本シリーズ9連覇は、日本球史に残る偉業といえる。 昭和50年(1975)に長嶋茂雄に監督を引き継いだ後は、野球解説や評論家としても活躍し長年にわたり少年野球の普及育成に尽力。その功績が認められ、平成4年(1992)72歳の時に勲四等旭日小綬章を授賞、野球界から初の文化功労者となるのである。93歳となった平成25年10月28日に老衰にて逝去。 幾度の中断を経て野球と向き合い、一家を支える為にプロ野球選手として活躍した川上哲治。選手として監督として指導者として川上が積み上げてきた数々の実績と経験に基づく教えは、現代を生きる私達に大きな示唆を与え続けている。

追悼 川上哲治((株)ベースボール・マガジン社)
打撃の神様 川上哲治(羽佐間正雄著 ワック株式会社)
もっこす人生(川上哲治著 日本放送出版会)

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