シリーズ 熊本偉人伝 Vol.9  ( 旅ムック75号掲載 )
ほそかわただおき・がらしゃ
細川忠興・ガラシャ

武将として、キリシタンとして動乱の戦国期を生き抜く

細川忠興生没年
1563年〜1645年 ガラシャ(玉)生没年:1563年〜1600年

細川家を盤石たらしめた文武両道の名将

加藤家に代わり、肥後熊本を治めた細川家。肥後 万石の初代藩主として明治まで続く細川家の礎を築いた忠利の両親が、文化人としても知られる細川忠興と、明智光秀の娘・玉(洗礼名ガラシャ)だ。 忠興は、室町幕府 代将軍の足利義輝に仕える細川藤孝(幽斎)の長男として永禄6年(1563)に誕生。武将でありながらも古今伝授を受け歌人として名を知らしめた父と同じく、文化人としても知られている。和歌や能楽、絵画に通じ、なかでも千利休の茶の湯を受け継ぎ「利休七哲」の1人に数えられている。豊臣秀吉により利休が切腹を命じられた時には、ゆかりのある大名の中で忠興と古田織部だけが見舞いに行ったほどだ。ほかにも、渋さの中に風格が漂う肥後鐔をはじめ、その鐔に施した肥後彫(肥後象がん)、陶器に象がんの技法を取り入れた高田焼(八代焼)などの工芸品の発展にも大きな影響を与えた。また、戦上手でもあり、織田、豊臣、徳川と多くの主君に仕えながらも、細川家を存続させるという政治手腕にも長けていた。一方で、冷徹で気性が激しい人物だったらしい。

最愛の妻を幽閉する苦渋の決断

忠興にとって最大の危機となったのが、天正10年(1582)6月に起こった「本能寺の変」である。忠興は天正6年(1578)、織田信長のすすめにより明智光秀の娘・玉(ガラシャ)と結婚。ともに16歳で、当代一の美男美女の夫婦といわれるほど。政略結婚とはいえ、忠興の玉への愛情も深く、天正8年(1580)には長男・忠隆が誕生。順風満帆の新婚時代を送っていたが、忠興の岳父・明智光秀が「本能寺の変」を起こすことで状況が一変。光秀は藤孝(幽斎)・忠興親子に支援を要請するが、親子は応じず、さらに忠興は妻・玉を丹後国味土野の山中(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉してしまう。幽閉という形は取るものの、離縁までしなかったのは、忠興の愛情が残っていたからだろう。しかし、細川親子に協力を断られたことが、光秀の滅亡を決定的にしたといわれている。

ガラシャの苦悩を救ったキリスト教

玉の幽閉は2年にわたったが、その後、秀吉の取り成しもあって天正12年(1584)3月、忠興は玉を大坂にある玉造邸に戻した。この年、次男・興秋が生まれているが、忠興は時折、玉が幽閉される味土野を訪れていたという説もある。天正14年(1586)には、後に熊本藩主初代となる忠利が誕生。夫婦仲は戻ったように見えるが、「逆臣の娘」というレッテルを貼られた玉は、行動は制約され監視される毎日を送る。そのような変転の人生の中で、唯一の救いとなったのがキリスト教であった。侍女の清原マリアを通じて、キリスト教に出会い、その教えに心魅かれていく玉。外出も制約されていたため、教会へ行くのも困難であったが、オルガンティノ神父の許可を受けたマリアにより、天正15年(1587)洗礼を受けることになる。洗礼名はガラシャ。ラテン語で「神の恵み」という意味を持つ名前は、明治期にキリスト教徒が彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でも「ガラシャ夫人」と呼ばれることが多い。
ガラシャの受洗によって、彼女の子どもや側近の入信も相次いだ。イエズス会にとって名家の夫人であるガラシャの受洗は大きな成果として捉えられ、オルガンティノ神父やルイス・フロイスなどの書簡で頻繁に報告されている。その中に「繊細な才能と天稟の才による知識において超人的」と書かれ、教養が高く美しい人であったことが窺える。
しかし、同年に秀吉はキリスト教の布教を制限する「バテレン追放令」を発令。キリスト教自体を禁止するものではなかったが、忠興は家中でキリスト教に改宗した侍女の鼻をそぎ、追い出すなど厳しく禁じた。ガラシャは発覚を免れたものの、寄り所を失い「夫と別れたい」ともらすこともあったという。

武将の妻として迎えた壮絶な最期

関ヶ原合戦の直前にあたる慶長5年(1600)7月、徳川方に付いた忠興が上杉討伐のために不在となった隙に、西軍の石田三成は大坂の玉造邸にいたガラシャを人質に取ろうと屋敷を取り囲んだ。敵方の人質となっては、夫が安心して戦えない、他の大名にも影響を与えると考えたガラシャは、人質になることを拒否。キリスト教では自殺は大罪であったため、家老・小笠原昌斎に槍で胸を突かせて38歳の生涯を終えた。介錯した昌斎もガラシャの遺体が残らぬように屋敷に火を放ち自害した。
キリシタンとして夫に仕えたガラシャの辞世の句は有名である。

「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」

ガラシャの死後、オルガンティノ神父は焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺のキリシタン墓地に葬ったという。忠興もガラシャの死を悼み、慶長6年(1601)にオルガンティノ神父に依頼して、大坂の教会でガラシャの葬儀を行った。この葬儀には、忠興をはじめ多くの家臣が参列したという。なお、玉造邸が西軍に囲まれた際、屋敷内にはガラシャと長男の忠隆の妻・千世(前田利家の娘)がいたが、ガラシャが命を絶った時に千世の姿はなかった。これに激怒した忠興は長男の忠隆に離縁を命じるが、忠隆は命に背いたために勘当。そのため、細川家の後継者は三男の忠利となった。
徳川家も、ガラシャの潔い最期を武門の名誉と讃えるとともに、関ヶ原の功績として豊前国と豊後国二郡39万9千石が与えられた。小倉城下では、忠興はガラシャの命日にミサを行っていたという。江戸幕府による禁教令により、キリスト教への弾圧が厳しくなると、忠興はミサを辞めようとするが、息子の忠利は「母のために続けたい」という手紙を父に送るほど母への想いが強かったという。しかし、慶長 年(1614)になると、忠興は「クルス堂をはじめ、バテレンの墓、国中に打ち壊す」と家臣に命じ、教会堂も破壊したという。


熊本の地で再び夫婦水入らずに

寛永9年(1632)、改易された加藤忠広の後に小倉から移封された忠利は、寛永14年(1637)に熊本城近郊の下立田に泰勝院(後に泰勝寺。現在は廃寺)を建立。祖父の藤孝(幽斎)夫妻とともに母・ガラシャの墓も移して供養した。
晩年の忠興は、元和6年(1620)に三男・忠利に家督を譲り三斎宗立と号して隠居。忠利とともに熊本に入った後は、八代城の北の丸を隠居所とした。親しくしていた仙台藩の伊達政宗、柳川藩の立花宗茂とともに、戦国の生き残りとして最後まで武将としての心を忘れなかったという。正保2年(1645)に溺愛していた四男・立孝を失った後、同年12月2日、八代城にて逝去。享年83歳。ガラシャが眠る泰勝院に葬られた。

取材協力/熊本県立美術館

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