江津湖畔に生まれ育った昭和期を代表する女流俳人
中村汀女 生没年
1900年(明治33年)4月11日生誕〜1988年(昭和63年)9月20日没
江津湖畔に生まれ育った昭和期を代表する女流俳人
中村汀女 生没年
1900年(明治33年)4月11日生誕〜1988年(昭和63年)9月20日没
明治33年(1900)、熊本県飽託郡画図村(現熊本市東区画図町上江津地区)で、斎藤平四郎・亭のひとり娘として誕生した汀女(本名破魔子)。大正元年(1912)、県立熊本高等女学校(現熊本県立第一高等学校)入学、大正6年(1917)同校を卒業し、補習科(英文学などを専攻する科)に入学した。汀女は英文学や演劇などに興味を持ち、とても聡明な女性だったという。
当時、江津湖では毎年4月に五高(現熊本大学)のボートレースが開催されていて、各部がしのぎを削り、地域の人々も応援に出て大変賑わう春の一大イベントだったという。レースに向けて各部の合宿もあり、近隣の農家が宿を提供したりしていたらしい。汀女の家でも母の亭が宿の相談事などを引き受け、時には家の座敷を提供する事もあったようだ。
バンカラだったろう五高生たちの目に、汀女の才ある美しさはどのように映ったのか。学校帰りに男の学生から付け文をされたこともあるという。場所はおそらく江津湖の塘(堤防)ではなかったかとも。江津湖を舞台に、汀女の青春のページが刻まれていた様子がうかがえる。
汀女は補習科を卒業した年に句作を始め、九州日日新聞(現熊本日日新聞)に投稿した句が掲載された。大正9年(1920)「ホトトギス」誌に初投稿して入選。同年12月に中村重喜と結婚し熊本を離れた〈熊本近代文学館の井上智重館長によれば、大正9年の結婚は大正10年(1921)の誤りのようだ。大正10年の九州日日新聞に、先輩女流俳人の杉田久女が熊本を訪れた時の汀女のエッセーと久女の句が掲載され、日付が記してある〉。熊本を離れて10年間ほど句作を中断。昭和7年(1932)、再び句作を始め高浜虚子に師事。昭和9年(1934)「ホトトギス」同人となり、俳壇に確固たる地位を築き、昭和63年(1988)、88歳で亡くなるまで詩情あふれる多くの句を残した。
生まれ育った江津湖を愛していて、江津湖の風景を想い起こさせる句や母への想いを詠んだ句も多い。江津湖周辺には汀女をはじめ夏目漱石などの文学碑があり、文学の散歩道になっている。その中の汀女の句碑から
とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな
横浜時代に作られた句だが、江津湖の風景にも重なって感じられる。
つゝじ咲く母の暮しに加はりし
江津湖の生家でひととき、母と時間を共にする喜びを詠んだ一句。
江津湖は今も、毎日約40トンの湧水が湧き出している。豊かな自然が残り、貸しボートの店や動植物園などの施設もある市民の憩いの場だ。一角にある熊本近代文学館は中村汀女や夏目漱石、徳富蘇峰・蘆花など熊本ゆかりの作家・文学者の原稿や書簡などが展示されている。湖畔を散策し自然に触れ、ゆかりの文学に触れるのも楽しそうである。
取材協力/熊本近代文学館館長・中村汀女研究家 井上智重氏
参考文献/角川春樹事務所刊「俳句現代」平成13年4月号“読本・中村汀女”、
同誌掲載・井上智重著「中村汀女の中に封印された“青春”」