シリーズ 熊本偉人伝 Vol.7  ( 旅ムック73号掲載 )
ほそかわゆうさい
細川幽斎

動乱の戦国期、歌人として名を馳せた細川幽斎(藤孝)ゆかりの古今伝授の間

細川幽斎生没年
天文3年4月22日(1534年6月3日)〜 慶長15年8月20日(1610年10月6日)

時勢を読み、大名への礎を固めた細川家初代

寛永9年(1632)、改易された加藤家に替わり、豊前小倉藩より細川忠利が入封。以来12代にわたり、細川家によって熊本が治められることになる。細川家初代が忠利の祖父・細川幽斎(藤孝)。戦国の動乱期にありながらも、和歌や連歌の修行を続け、安土・桃山時代で一番の教養人として知られている。 幽斎は、天文3年(1534)4月22日、室町幕府幕臣・三淵晴員の次男として京都東山に生まれる。幼名は万吉。12代将軍足利義晴の命により伯父である細川元常の養子となり、細川家の家督を継いだ。一説には義晴の子ともいわれている。 幕臣として13代将軍義輝に仕えるが、永禄8年(1565)、永禄の変で義輝が暗殺されると、義輝の弟・一乗院覚慶(後に還俗して足利義昭)を救出。明智光秀とともに義昭の上洛を計画し、織田信長の援助を得て永禄11年(1568)、義昭は15代将軍となった。しかし、天正元年(1573)より義昭と信長が対立すると、兄・藤英が義昭側に付いたのに対し、幽斎は信長に恭順。義昭が追放された後、信長より山城国桂川より西(現・京都府長岡京市)を知行され、長岡姓を名乗ることになる。以後、信長の武将として畿内各地を転戦し、数々の功績を挙げていく。丹後南部を平定後は宮津城を居城とし、大名への道を突き進んでいく。さらに、天正10年(1582)の本能寺の変では、上役であり親戚でもあり、なによりも親友であった光秀の要請を断り、剃髪して幽斎玄旨と号して丹後田辺城に隠居してしまう。豊臣秀吉にも重用され、紀州征伐、小田原征伐、九州征伐に参加。また、千利休とともに秀吉側近の文化人としても寵遇されるが、一方で徳川家康とも親交を深め、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、家康率いる東軍に付くことになる。 今では文化人としての細川幽斎の名前が浸透しているが、武将としても信長から高く評価されるほど優れていた。その時々の優勢者をいち早く見出し、見事な働きで重用される。幽斎の時勢を読む力と的確な判断力があればこそ、明治まで続く大名家の礎を築くことができたと言えるだろう。

武士として初めて古今伝授の継承者に

若い頃から歌道を志し、将軍のお供をしながら夜中に勉学に励み、事あるごとに和歌を詠んでいたという幽斎。紀行文「九州道の記」「東国陣道記」を記し、公家・武家に関わらず多数の門人を有した。
特に知られるのが、「古今和歌集」の読み方・解釈を伝授する「古今伝授」だ。「古今伝授」は、藤原定家の歌道を受け継ぐ三条西家に代々伝わる秘事だが、三条西実枝は子の公国が幼かったため、弟子の一人・幽斎が中継ぎとして継承。公国の子・実条に伝授するまで秘事を預かり、師・実枝との約束を果たした。慶長5年には、後陽成天皇の弟宮・八条宮智仁親王へも教授。智仁親王から後水尾天皇に伝えられ、御所でも伝授されるようになった。
「古今伝授」は和歌をたしなむ武士が部分的に伝授される場合もあったが、武士の身分で継承者として名を連ねるのは幽斎のみだという。古今伝授を武士である幽斎が行ったエピソードが残っている。智仁親王への古今伝授の講義は慶長5年3月19日から始まったが、4月になると徳川陣営と石田陣営の動きが慌ただしくなり(後の関ヶ原の戦い)、息子・忠興は家康の会津征伐に参加していたため、幽斎自らが居城であった丹後田辺城を守ることとなる。1万5000人の大軍に包囲された際には2ヶ月にわたり籠城し、智仁親王への講義は中断。もし幽斎が討ち死にすれば日本の歌道が途絶えることになると、後陽成天皇の勅命によって講和が結ばれた。その後は、京都で悠々自適な晩年を送り、慶長15年(1610)8月20日、77歳で逝去。

武士として初めて古今伝授の継承者に

幽斎が智仁親王に古今伝授を行ったのが、熊本市の水前寺成趣園内に立つ「古今伝授の間」である。当時は智仁親王の学問所として京都御所内にあったが、息子・智忠親王時代に乙訓郡開田村(現・京都府長岡京市)の長岡天満宮境内に移され、台所や湯殿などを建て増して「開田御茶屋」と称されていた。明治4年(1871)、「開田御茶屋」は宮家の領地上げ地の際に、ゆかりのある細川藩へ下賜され、熊本に移すべく解体し建て増し部分を捨て大阪の藩の倉庫で保管される。大正元年(1912)歴代藩主を祀る出水神社の境内へ移築。古今伝授は御所をはじめ様々な場所で行われたが、実際に伝授された部屋が残るのはここだけと言われる。
公家好みの御茶屋の佇まいを伝える「古今伝授の間」は、現在、幽斎没後400年に合わせて解体修理が進められている。解体されたのは熊本への移築後初めてで、新発見も多くあった。例えば、鬼瓦の前に置く拝み瓦の破片が出土したり、床框の裏書きには「享和元年10月15日 木屋新兵衛」と記されていたり。「古今伝授の間」がたどってきた歴史を知ることができたという。また、大正時代に移築された当時の状態に修復されるのが特徴的で、茅葺き屋根の上部に瓦を乗せているのが改修前と大きく異なる。当時の部材もできるだけ使い、細川家に伝わる「古今伝授の間の由来」に記される間取りに忠実に復元。和歌をはじめ文学への研究に情熱を注いできた幽斎を称える史跡として、生まれ変わろうとしている。

文武に秀でた細川家の当主たち

本能寺の変で隠居した幽斎に替わり当主となったのが長男・忠興である。明智光秀の娘・玉子(ガラシャ)を正室に迎え、秀吉の天下統一に協力し、関ヶ原では家康側の東軍に属して活躍した。一方で父・幽斎と同じく教養人としても名が高く、千利休に茶の湯を師事し、利休七哲の一人に数えられている。三男・忠利に家督を譲った後は三斎宗立と号し、寛永9年(1632)12月、忠利が藩主として熊本に転封されると、八代城に入り隠居所とした。この時、忠興好みの茶器を造っていた朝鮮陶工・金尊楷(上野喜蔵)も従い、八代に高田焼が創始された。 細川家3代である忠利は、熊本藩主としては初代となる。母は玉子であり、明智氏の縁者であった春日局も忠利に対しては好意的だったという。祖父・幽斎、父・忠興とは異なり、武芸に熱心に取り組んでいた。特に剣術では柳生宗矩に入門し、柳生新陰流の代表的な剣士となった。また、晩年の宮本武蔵を客分として熊本に招いたことでも知られている。熊本の郷土料理である辛子蓮根は、病弱だった忠利のために考案された健康食である。 立田自然公園内にある泰勝寺跡には、幽斎夫妻と忠興・玉子夫婦、花岡山麓の妙解寺跡には忠利が埋葬されている。

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