シリーズ 熊本偉人伝 Vol.34 
はとの そうは
鳩野 宗巴【後編】

先人より受け継いだ博愛慈善の精神
「医は仁術」に徹した「熊本の赤ひげ先生」

1844年(弘化元年)3月17日生誕〜
1917(大正6年)3月8日没 享年74才

西南戦争での慈愛救護人道博愛の精神

日本最後の内乱である西南戦争で、ここ熊本の地において薩摩軍(薩軍)・政府軍(官軍)・一般市民を分け隔てなく救護した人道主義に基づく医療による博愛精神が具現化された瞬間がある。それは図らずも、日本赤十字社の前身となる博愛社が誕生するより約3ヶ月前のことであり、その先駆けとなる活動をした人物こそ、八世・鳩野宗巴である。

人柄に裏打ちされた事柄 「命を守る」という信念

西南戦争時に薩軍・官軍・一般市民と敵味方関係なく負傷者を手当てしていた宗巴は、西南戦争が終わった後も「医は仁術」のもとに医師として活動。父から医師養成の塾・亦樂舎を引き継ぎ、43年間で156名もの医師を輩出した。明治22年(1889)に流行した数え唄には「医者殿は鳩野さんが名所」と名前が出てくるほど。 その一方で、福祉の実践にも熱心だった宗巴。本業のかたわら質屋を経営し、貧しい質入れ主には無利子で受け払いをしたとされる。また、明治25年(1892)に現在の大江学園の前身となる熊本貧児寮が建設されると、以後20年間、ボランティアで担当医師に就いている。その他、諸学校の建設や出征家族への救助、自然災害で被害に遭った人々へ金や衣類を送るなど数々の功績が残され、当時の新聞に「得難き慈善家」と評されたこともあった。 こうした数々の事柄は、彼の人柄が関係しており「素朴で飾ることなく、慈善心に富み、おごることなく、自らは倹約節約に努め、貧民のため、公益のために義金を投じた」といった言葉が数々の文献に残されている。その象徴的なエピソードとして、往診で出されたお菓子を持ち帰り貧しい家の子どもに分け与えたり、貧しい人々から治療費をもらわず治療し薬を与えたりすることが度々あったといわれている。 そんな彼の慈愛は人に留まらず、動物や植物など命を持つもの全てを大切にしており、戦争で狩り出された馬たちのために宗岳寺(熊本市中央区上林町)には供養碑を建てていることからもうかがい知れる。

文人としての八世・宗巴と その後の鳩野一族

代々伝わる遺訓「医は仁術」を重んじ、人の苦難に直ちに手を差し伸べる。そんな医術に晩年まで一貫した信念と行動をした医師・宗巴は、一方で文人でもあった。彼が残した漢文や和歌、絵の中には、自ら手入れをし草木を植えた拜聖庵(のちの拜聖院)が度々登場する。庵に咲く季節の草花の美しさを語り、西郷隆盛もここの桜を愛でながら詩を詠んだと記述している。また時には、戦争で若者が命を落とすのを見守るしかできない医師としての無念さを憂い、供養として絵に描き和歌に詠み残すこともあった。素朴な博愛者としての彼の人柄は、作品の中にも顕著に表れているということだ。 医者として博愛と慈愛のもとに地道な活動を続けた宗巴。大正4年(1915)には慈善家として熊本市長より表彰を受けるが、その後病いに倒れ、大正6年(1917)に74歳でこの世を去った。彼の死後、九世・十世・十一世と鳩野家は今も続いているが、昭和40年(1965)に十世が他界すると医家としての本家は途絶えてしまう。しかし、現在は親族が開業医として医療に携わっておりその血は綿々と受け継がれている。 彼が亡くなった後もその功績は称えられ、昭和52年(1977)には「診療や医学生の育成に力を尽くした慈善を行った医師」として、熊本県近代文化功労者の表彰を受ける。 当時としては先進的だった博愛精神に基づく医療活動、そこから派生した福祉活動は、八世没後から100年以上経った今も、そしてこれからも、霞むことなく燦然と輝き続けるものであることは疑いようがない。

協  力/日本の赤十字活動発祥の地を顕彰する会
     熊本市役所文化振興課
参考文献/西南戦争と鳩野宗巴(日本の赤十字活動発祥の地を顕彰する会発行)、
八世鳩野宗巴没後百年記念誌(日本の赤十字活動発祥の地を顕彰する会発行)、
郷土読本 夢の実現を ふるさとくまもとの人々(熊本市教育委員会発行)、
(平成7年度)尚絅公開講座・講義録(尚絅学園発行)、
史叢第7号(熊本歴史学研究所発行)

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