戦国時代の無敗武将
阿蘇家の勢力拡大に尽力した御船城城主
甲斐宗運生没年
生誕年月日不詳〜1584年(天正12年)7月5日没(享年70才前後)
戦国時代の無敗武将
阿蘇家の勢力拡大に尽力した御船城城主
甲斐宗運生没年
生誕年月日不詳〜1584年(天正12年)7月5日没(享年70才前後)
戦国時代、肥後の北東部を治めていた阿蘇家。その阿蘇家に生涯仕え、最盛期を支えたのが生涯60戦無敗、負けなしの武将ともいわれた甲斐宗運(本名:親直(ちかなお))である。
宗運は阿蘇家に忠義を尽し、武勇と知略を生かし阿蘇家の勢力拡大に尽力。しかし、天正6年(1578)日向国高城川原(宮崎)での耳川(みみかわ)の戦い以降は九州の情勢が変化し、豊後(大分)の大友家から離反する者、肥前(佐賀・長崎)の龍造寺家に付く者、薩摩(鹿児島)の島津家に従属する者が現れ始めた。このように九州の勢力図が大きく動く中、宗運はあらゆる手を使い主家の存続に力を尽くすのである。
宗運は日向国鞍岡(宮崎)の領主であった甲斐親宣(ちかのぶ)の嫡男として生まれる。この頃、父の親宣は阿蘇家当主の座を巡り兄弟で対立していた阿蘇惟豊(これとよ)を匿(かくま)い、惟豊を助けて当主に復帰させたことにより阿蘇家の重臣に据えられ仕えることとなった。
天文10年(1541)、御船(みふね)(現:上益城郡御船町)を治めていた御船房行(ふさゆき)(行房(ゆきふさ))が阿蘇家に謀反(むほん)を企てるとの情報が入ると、阿蘇家当主であった惟豊は息子の千寿丸(せんじゅまる)(後の阿蘇惟将(これまさ))を総大将とし討伐(とうばつ)命令を下す。しかし、千寿丸にとってはこの戦いが初陣(ういじん)であったため、宗運は父・親宣の推挙を受け侍大将を任じられ千寿丸を補佐。宗運はこの時20歳代の青年武将となっていた。
柳本大明神(現:小一領(こいちりょう)神社)で出陣式を行い、武運を祈願した一行は御船へと向う。当時、御船城の周りは蓮が広がる湿地帯であったと言われており難攻不落の城であった。そこで宗運は御船城から5キロ程離れた軍見坂(ぐみさか)に布陣し御船房行を城から誘き出すのに成功。はじめ房行は大将である千寿丸の部隊を正面から攻撃していたがその隙に宗運の部隊が後方より回り込み挟み撃ちをする形になったため、房行は進退もままならず軍見坂で自害し果てた。この御船氏討伐の功績が認められ、宗運は御船城城主となり生涯この城を本拠地とする。
天正6年(1578)、豊後の大友氏が薩摩の島津氏に大敗した耳川の戦い以降九州の情勢が徐々に変化する中、ついには島津氏が肥後に侵攻して来た。北では肥前の龍造寺氏が勢力を強め、筑後から肥後国北部に迫っていた。援軍が欲しい宗運であったが、同盟を組んでいた大友氏の元を離反する者が増える現状では援軍は当てに出来ない状態であると判断。ついに宗運は天正9年(1581)に大友氏に見切りをつけ独断で動くこととなる。
島津の軍勢が迫る中、阿蘇家存続のために宗運は降伏の意思を島津側に告げるが、軍門に下る条件として島津氏が占拠した郡浦(こうのうら)(現:宇城市(うきし))や網田(おうだ)(現:宇土市(うとし))などの阿蘇家領の返還を求めるものであった。
とても承認出来る内容では無いため、島津氏は要求を拒否し武力をちらつかせたが、今度は無条件でいいと宗運が言い出す。ならば人質を差し出すか、隈部(くまべ)氏を討って誠意を示せと島津側が要求するが、この時宗運は人質も出さず出兵もせず島津側に和儀成立を祝う贈り物を贈るのである。
結果何も進展せず贈り物を受け取って良いものか島津氏も大変困惑した。このことを島津義久の家老である上井覚兼は宗運について「武略の人」と自身の記録に書き記している。武略の人とはかけ引き上手と言う意味の他に抜け目無いしたたかな人と言う意味合いも含まれ、一筋縄ではいかず戦わずとも負けはしない宗運の知略が功を奏した出来事であった。
しかしこの時期、阿蘇家内では天正11年(1583)に当主の阿蘇惟将が、翌年の天正12年(1584)には惟将の跡を継いだ弟の惟種(これたね)が相次いで亡くなるなど危機的状況に見舞われてた。宗運自身も老齢の身であり、強国からの圧力、主家の危機、国内の混乱など自身の肩に重くのしかかっていたが、そんな状況の中でも負けず折れずに阿蘇家に尽力した宗運の姿があった。
取材協力・文/小林かなこ氏
参考文献/甲斐党戦記(荒木栄司著)、勇將甲斐宗運(高野白哀著)、九州戦国の武将たち(吉永正春著)