シリーズ 熊本偉人伝 Vol.22  ( 旅ムック88号掲載 )
増永三左衛門、林田能寬、松崎慊堂、光永平蔵

知恵と技、財力で地域のため人のために尽くす

※古くから上益城地方の政治・経済・文化の中心であった御船町。幕末には、尊皇攘夷の志士・宮部鼎蔵をはじめ志高い5人の先哲が活躍し、地元はもとより、肥後藩、幕府に貢献した。今回は、増永三左衛門、林田能寬、松崎慊堂、光永平蔵の4人の生涯を綴る。

増永三左衛門(1803〜1867) 日本式の製鉄法で生まれた熊本初の大砲を製造

時代は、ペリー艦隊が浦賀に来航し、幕府は各藩に海岸防備警備を命じた頃。各藩では大砲の量産が叫ばれるようになり、熊本藩でも製砲の研究が進められた。その時、白羽の矢が当てられたのが、御船町の商家・増永三左衛門だ。
大砲を造るには西洋式の反射炉が必要とされていたが、三左衛門の大砲は日本式のたたら炉(脚で踏むふいご)で製造。目標を遙かに超える飛距離を記録し、熊本藩に採用された。
この時の大砲は、熊本城内に設置された熊本鎮台に受け継がれ、市民に正午を知らせる「午砲台」として昭和17年頃まで活躍した。

林田能寛(1817〜1885) 日向往還の難所に目鑑橋を架橋 私財を投げ打ち領民に貢献

文化14年(1817)、御船町の豪商「萬屋」の三代目として生まれた林田能寬。酒造や米穀・海山物の販売、旅館、金融を手掛け、熊本藩の経済支援を行うほどの繁栄を極めていた。
同時に慈善事業で領民にも尽くし、最大の事業となったのが熊本と宮崎を結ぶ日向往還の難所・八勢川への架橋。惣庄屋の光永平蔵に相談し、私財を投じ、長さ62m、幅4m、鑑輪14・5mの「八勢目鑑橋」を完成させた。ほかにも、人材育成のために私学校「文武館」を開校するなど、69歳で亡くなるまで郷土の発展に貢献した。

松崎慊堂(1771〜1844) 学問への熱意で農民から立身出世 将軍にも教授した大学者

明和8年(1771)、上益城郡木倉村の農家に生まれた松崎慊堂は、学問で身を立てるため15歳で江戸へ出府。寛政2年(1790)、当時の最高学府・昌平黌に入学し、林述斎の家塾では塾生トップの塾生領袖となるまで成長した。幕府儒官となった佐藤一斉は共に机を並べた学友である。
その学識を認められ、享和2年(1802)に遠州掛川藩に招かれて儒官となり、天保13年(1842)には将軍徳川家慶の教授を務めた。蛮社の獄で捕らえられた渡辺崋山、近代漢学の礎を築いた安井息軒は慊堂の門人として知られる。江戸時代後期の大儒(大学者)と称せられる一人である。

光永平蔵(1802〜1862) 田畑を潤す豊かな水勢を生む全長873メートルのトンネル

天保2年(1831)に惣庄屋に任命された光永平蔵。御船川目鑑橋や八勢目鑑橋の架設、嘉永井手の開設に着手し、領民の安全と暮らしに貢献してきた。  なかでも全長873mの「九十九折隧道」は、言葉に尽くせないほどの難工事で、「光永平蔵さんは岩より強か、九十九折岩山突っぽがす」と、当時の人に歌われたという。
トンネルの完成により、吉無田水源から取水した清水井手(改修後は元禄井手)の下流と小多良川、亀谷川の3渓流を合わせてトンネルを貫流し、矢形川の源流と合流。豊かな水勢は300ヘクタールの田畑を潤し、現在でも、御船町に豊かな実りをもたらしている。

取材協力/御船町教育委員会

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