シリーズ 熊本偉人伝 Vol.4  ( 旅ムック70号掲載 )
かとうきよまさ
加藤清正【第二章】

築城や新田開発などで熊本の礎を築き、
豊臣家への忠義を貫いた加藤清正

加藤清正生没年
安土桃山時代 永禄5年6月24日(1562年7月25日)〜 江戸時代前期 慶長16年6月24日(1611年8月2日)

清正の経験と知恵を注いだ熊本城

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に協力した加藤清正は、石田三成の西軍についた小西行長を滅ぼし、同じく石田方の島津氏を降伏させた。その功により、徳川家康から小西領を与えられ、肥後54万石の藩主となった。 大藩の藩主となった加藤清正は、ようやく肥後に腰を据えることとなる。この頃、各藩では築城ブームが起こり、清正も例に漏れず、家康から許しを得て築城に取りかかる。熊本城築城の時期は、慶長6年(1601年)着工、慶長12年(1607)完成というのが通説だが、「慶長4年8月」の銘が入った瓦が出土しており、確定的な着工年はいまだに謎のまま。2008年に完成した熊本城本丸御殿の復元工事が5年と考えると、7年間で完成させることは難しいのではないだろうか。 熊本城が築かれた茶臼山丘陵(ちゃうすやまきゅうりょう)は、標高50m、東側を坪井川、西側を井芹川にはさまれ、東・北・南が断崖となった天然の要塞。応仁年間にあった「千葉城」、鹿子木寂心(かのこぎじゃくしん)の「隈本城」もこの茶臼山一帯に存在したことから、肥後の要といえる場所だ。それに、清正が実戦の経験から得た知恵を注いで築いた熊本城は、まさしく「難攻不落」。坪井川を井芹川に合流させて作った内濠(うちぼり)、白川の流れを取り入れた外濠(そとぼり)。さらに、熊本城の最大の特徴である石垣「武者返し」は、外部からの侵入を阻止する役割を担った。ちなみに、優美にして堅牢な石垣は「清正流」と呼ばれ、江戸時代から全国に名を馳せていた。また、文禄・慶長の際に築かれた名護屋城・蔚山倭城(うるさんわじょう)、江戸城・名古屋城などの築城にも携わり、藤堂高虎(とうどうたかとら)と並ぶ築城の名手と謳われる。 熊本城は天守をはじめ櫓も塀も、多くは黒い下見板で囲まれ全体的に黒く見えるが、これは豊臣秀吉が黒を好んだことに影響される。ちなみに、名古屋城や再建された大阪城などでも分かるように、家康は白を好んだという。このことからも、清正は生涯を通して秀吉に忠義を尽くし続けたことがわかる。

現在の街の基盤となる城下町づくり

熊本城築城に着手した清正は、同時に城下町の整備にも取りかかる。熊本城の西側には新しい町屋・新町が形成され、南部の坪井川と白川の間には以前からの町屋を移して古町(現在の細工町・呉服町・唐人町)とした。また、上級武士は城内あるいは内坪井・山崎に、下級武士は手取・千反畑・高田原に居を構え住み分けがなされた。城下を通過する街道も整備され、北に向かう豊前街道、東へ向かう豊後街道、南へは薩摩街道と日向街道に統一された。
「隈本」の呼称を「熊本」と改めたのも清正である。熊本の城下町は時代の変化により若干の拡張もあるが、江戸時代を通して大きな変化はなく、明治22年の市制施行後も熊本の街の基礎となり現在に至っている。

朝鮮から持ち帰った食の数々

清正に由来する食べ物と言えば、現在でも代表的な土産物となる「朝鮮飴」だろう。朝鮮飴の元祖である上通町・園田屋の由来書によると「清正が文禄・慶長の役に持参したところ、気候風土によって味が変わらず、長期保存に適すると言ってほめた」とある。以来、清正はもちろん、歴代細川藩主も幕府の献上品として取り立てていたと伝えられている。
文禄・慶長の役で清正が持ち帰ったと言われる食品もある。一つはセロリで、「清正人参」という別名もあるほど。もう一つは納豆で、空になった味噌袋の中に馬糧(ばりょう)の煮豆を入れて行軍していたところ、馬の体温で煮豆が蒸れて糸ひき納豆が出来上がり、空腹の武将たちの胃袋を満たしたというエピソードが残っている。清正は酒には眼がなかったそうだが、屠蘇(とそ)やみりん代わりに使われる「赤酒」も朝鮮より製法を伝えたものとされている。熊本城築城の折りには、作業後には必ず使役に出た領民や家臣に酒を振る舞まった。
朝鮮出兵で食糧難に陥った経験から、城内には食糧確保のため工夫が随所に施されていた。たとえば、ズイキ(芋がら)が敷き込まれた畳や干瓢(かんぴょう)が塗り込まれた壁、銀杏の実も食糧として毎年保存され、城内には良質の薪になる木が選ばれて植えられた。西南戦争で政府軍が熊本城に籠城した際、清正時代に残された兵糧米や梅干し、塩が発見された。質実剛健な清正の気風は、食文化にも伺える。

後世にまで恩恵を残す清正の事業

築城の名手であった清正は、治水・灌漑(かんがい)事業にもたぐいまれな力を発揮した。「土木の神様」と呼ばれるゆえんである。  肥後入国直後から、富国安民の国づくり政策を推し進めた。その代表的なものが、河川の改修や干拓による新田開発だ。農業生産力の向上を図ったが、白川・菊池川・球磨川・緑川から有明沿岸まで、肥後の国全体を見直す大規模なものだった。また、菊陽町に残る火山灰対策の用水路「馬場楠井出(ばばぐすいで/鼻ぐり井出)」、白川をせき止めた「渡鹿堰(とろくせき)」などが先進的な測量・土木技術により造られた。これらによって、肥後の農業が大きく発展したのはもちろん、清正による遺構(いこう)は今なお利用され熊本の農業を支えている。
一方で、朱印船貿易にも取り組み、東南アジアとの交易を行う。特にベトナムとの友好関係は深く、安南(あんなん)国王より国書が送られたという記録が残っている。朱印船貿易の拠点となったのは玉名市の高瀬。肥後北部の重要な港として栄え、八代、川尻と並ぶ経済、産業、交通の中心地となった。

清正の最期と、その後の熊本

関ヶ原の戦いでは東軍についた清正だが、徳川家に忠誠で尽くす一方で、豊臣家への恩も忘れず、秀頼を補佐しようと努めた。本丸御殿の「昭君の間」は「将軍の間」の隠語であるという説もあり、秀頼に万が一の時には熊本城に迎え入れ、西国武将を率いて徳川に背く覚悟があった。秀頼も清正に会うたびに喜び、ことのほか頼りにしたという。 慶長6年(1601)に征夷大将軍となった家康は、江戸幕府を開き、武家諸法度をはじめとした武家の統制、朝廷の掌握に向けた法整備を行う。さらに、慶長10年(1605)には将軍職を辞し、嫡男の秀忠に継がせた。これ以降、将軍職は徳川家が世襲していくものと天下に示した。さらに、家康は秀頼の屈服を示そうと秀頼との会談を要望。豊臣側は拒絶していたが、加藤清正をはじめとした豊臣恩顧の大名の奔走により、慶長16年(1611)3月28日、二条城において家康と秀頼の対面が実現。会談を固辞していた淀君を説得したのは清正だったと伝えられている。その清正は、いざとなれば家康と刺し違えることを覚悟で、二条城に赴いた秀頼に随行。懐中に隠し持っていたと伝えられる短刀は、菩提寺の本妙寺に遺されている。 無事に大任を果たした清正は、会談の3ヶ月後病死する。49歳であった。死因は脳溢血(のういっけつ)あるいは腎虚(じんきょ)とされるが、家康による毒殺説もある。同時期に、浅野長政、真田昌幸、堀尾吉晴と、豊臣派の大名が相次いでこの世を去ったため、家康による毒殺という憶測が流れたのだろう。 清正亡き後、家督を継いだ忠広は後に幕府によって改易され、加藤家は消滅する。しかし、清正の娘・八十(やそ)姫(一説によるとあま姫)は家康の子・初代紀伊藩主 頼宣(よりのぶ)へ嫁ぎ、紀州二代藩主 光貞(みつさだ)を生んだ。その光貞の子が八代将軍・徳川吉宗である。

取材協力:熊本市立熊本博物館

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