シリーズ 熊本偉人伝 Vol.2  ( 旅ムック68号掲載 )
かとうきよまさ
加藤清正 【第一章】

武将加藤清正肥後入国。そして熊本の基盤を築き上げた清正公へ

加藤清正生没年:安土桃山時代
永禄5年6月24日(1562年7月25日)〜 江戸時代前期 慶長16年6月24日(1611年8月2日)

清正と秀吉のえにし

「清正公(せいしょこ)さん」と呼ばれ、今も熊本の民に親しまれている加藤清正公。武神としての勇ましいイメージや朝鮮出兵の際の虎退治のエピソードなどがあるが、熊本庶民に現代親しまれているのは、熊本の治水・地山などの土木工事、自然災害に対する防災設備、農業生産体制など、生活基盤を清正が整備し、農民の生活向上に寄与しているためである。また、誠実で温かく優しい人柄と信義を重んじる姿勢も愛される理由だったのだろう。
清正は、永禄5年(1562)、加藤清忠の子として尾張国愛智郡中村(名古屋市)に生まれる。幼名を夜叉丸のちに虎之介という。父清忠は清正が3歳のときに病死するが、教育熱心な母伊都は幼い我が子を妙延寺へ通わせ勉学を学ばせている。伊都は豊臣秀吉の母“なか”と血縁関係にあった縁で、清正が10歳前後のときに木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の元に仕わせている。幼い頃からたくましい体つきと体力と知恵を持ち、武芸にも秀でた清正は、秀吉から我が子のように可愛がられたという。秀吉のそばで清正は、人の使い方やきめ細やかな武略などを吸収していったのである。

武勇を積み重ね肥後入り

秀吉を烏帽子親として元服した清正は、秀吉の家臣として数々の功名をあげた。秀吉が信長の後継者となることを決定づけた天正11年(1583)の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で清正は大活躍した。この戦いで清正らは、太刀や槍を片手に柴田勢に突撃し、戦を勝利へと導いた。この功績は「賤ヶ岳の七本槍(しちほんやり)」と呼ばれ、戦功を立てた清正は3,000石の所領を与えられ部隊長格に昇進した。この頃に、幼い頃からの仲間であった飯田覚兵衛(いいだかくべえ)森本義太夫(もりもとぎだゆう)が、清正の家臣となる。ここに1つの逸話がある。幼いころ剣の試合をして、勝ったものが主君に、負けたものが家来になるという約束をし、清正が勝った。その約束通り2人は家来になったということである。彼らはのちに加藤家の三傑と呼ばれ、築城に長けた覚兵衛、武術に長けた義太夫は、清正を支える忠臣になる。清正には幼い頃から人を率いる素質と魅力があったのだろう。 天正13年(1585)に関白になった秀吉は、清正を従五位に任命。清正は大名格へと出世する。そして、清正は28歳にして大名として肥後(熊本)入りするのである。長びく戦乱で混乱した肥後の統治に失敗した佐々成政の後に、肥後を半国ずつ任されたのが、清正と、のちに清正のライバルとなる小西行長であった。肥後統治にも逸話が残る。秀吉は清正にこう言ったという。「清正に領地を与えるが、四国の讃岐領と肥後とはどちらが良いか?」すると、清正は即座に「肥後」と語ったと伝えられている。そして清正は天正16年(1588)に隈本城(くまもとじょう)に入った。

天草の合戦と仇打ち話

行長は宇土を首府に決め、天正17年その近くに築城することに決めたが、天草の国衆の反発に遭い、清正とともに征伐を行う。天草の国衆、天草種元(あまくさたねもと)はキリシタン大名であり、行長もキリシタンだったため、なんとか助命できないかと画策したが失敗。結局は、清正が戦いを強行し天草種元(あまくさたねもと)は戦死した。国衆たちの反発を治めた行長と清正は、肥後を足がかりにして、秀吉の朝鮮出兵を進めていくことになる。なお、天草の戦においても、面白い話がある。天草勢の兵として活躍していた木山弾正(きやまだんじょう)と清正の仏木坂(ぶっきざか)での一騎打ちの話。槍と刀で戦う清正に弾正が弓矢を放った。その弾正に対して「槍に対して飛び道具とは卑怯なり、刀で勝負」と槍を投げた清正。それに従い弾正も弓矢を捨て清正へ向うが、清正は捨てた槍を拾って戦ったのである。一騎打ちは、飛び道具ではなく、槍や刀で戦うという清正の考えが現れている話であろう。また、天草合戦のとき、弾正の妻お京も鎧兜を着て清正軍と戦ったが、兜が梅の木に引っかかり討ち死にしたという話も残る。この梅の木は「兜梅」という名で今も天草市本渡の延慶寺にある。これらの話には続きがある。のちに熊本城を築城する際、弾正の息子五郎が、工事人夫として紛れ込み、父の仇討の機会を狙っていたがそれがばれ、逆に井戸に落とされ命を落としたという伝説がある。熊本城には、力持ちの五郎が首にかけて運んだという「横手五郎の首掛石」も残っている。

朝鮮出兵へ

肥後を平定した清正と行長は、秀吉の「大陸出兵の野望」に従い、朝鮮出兵へと向かう。行長自身は、かねてより朝鮮国との和平交渉を重ねていたこともあり、できれば戦は避けたいとの考えがあったようだが、朝鮮からの返答がないため戦が始まってしまった。最初は快進撃していた秀吉軍だが、朝鮮軍が団結していくに従い戦況が危うくなり、清正達は苦しい状況へと陥っていった。そんな中、清正が朝鮮の王子二人を人質として捕える。この人質のやり取りを巡って、行長と清正の確執が深くなっていく。なんとか朝鮮国との停戦を穏便に進めたい行長および石田三成と、人質を使って朝鮮に降伏させたい清正。行長にとって、清正の存在は目の上のたんこぶのだったのであろう。行長は、秀吉へ「朝鮮国に対して清正が行った虚偽の報告」を行い、怒った秀吉は清正を謹慎処分にする。このことが大きな原因となり行長および三成に対する不信感が根深いものとなっていく。

秀吉から家康の時代へ

朝鮮出兵中、秀吉の容態が悪くなる。秀吉が虎の肉を回復剤として欲しがったということや朝鮮で虎に襲われることも多かったことから、虎狩りが行われた。清正も得意の槍にて虎狩りを行ったという。その清正の虎退治の様子は、五月の節句の図柄などに描かれ今に伝わっている。本妙寺には、虎退治の錦絵も残っており、清正のエピソードとして有名である。
病回復に尽力した秀吉だったが、慶長3年(1598)62歳で死去。朝鮮出兵もこれで撤退することになった。その後、関ヶ原の戦いを経て、清正は小西行長をも倒すことになり、時代は徳川家康が統治する世へと移り変わっていく。

熊本の「清正公(せいしょこ)さん」信仰

熊本にある清正ゆかりの地といえば、日蓮宗本妙寺と熊本城の隣にある加藤神社があげられる。清正公さんを信仰する熊本の人々が通う信仰の場だ。熊本の人々にとって、清正は身近な生活神や農業の神様だった。今でもその恩恵を受けていると感謝している人々がたくさんいる。治水工事や土木工事などの工事現場には、工事の無事達成を祈るための祠(ほこら)に清正公が祀られているという。
清正自身、信仰心がとても深かった。それは日蓮宗を信仰していた母 伊都の影響も大きいだろうし、寺へ勉学に通っていたからでもあろう。晩年は、寺や神社の造営や復興などにも尽力している。
清正公ゆかりの本妙寺では、毎年加藤清正の命日である7月24日の前日に頓写会(とんしゃえ)の大祭が行われ多くの参拝客が訪れる。本妙寺の清正公祭礼の最も古い記事には、宝永7年(1710)の百年忌に関する肥後藩の記録があり、参拝客の警備に必要な人員に「物頭4人、足軽30人余を派遣した」とある。今から、約300年前の記録であるが、その時代にそれだけ多くの人が清正に様々な祈願を目的として訪れていたということがわかる。
清正公を祭祀(さいし)している村の小さなお堂や祠が熊本にはたくさんある。加藤清正ゆかりの加藤神社の創建は明治4年だが、神社ができる前は、本妙寺などの寺院と小さなお宮だけだったため、信仰の対象となる加藤神社が建立された。庶民から熱望され建立された加藤神社には、今でも訪れる人が絶えない。

取材協力:本妙寺、加藤神社、熊本県立図書館、熊本市立熊本博物館

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