シリーズ 熊本偉人伝 Vol.36  ( 旅ムック106 )
とくとみ ろか
徳冨 蘆花

兄への決別と和解、妻との深い愛
明治大正期に生きたベストセラー作家

明治元年(1868)10月25日生〜昭和2年(1927)9月18日没 享年60

教育・思想に影響を与えた生まれながらの環境

明治大正期に活躍したジャーナリスト徳富蘇峰の弟・徳冨蘆花を知っているだろうか。徳富家は代々、総庄屋、代官を務めた旧家であり、彼は明治元年(1868)10月25日、葦北郡水俣(現・水俣市)で父・一敬、母・久子の三男として生まれた。蘆花(本名・健次郎)を取り巻く環境はある種独特で、父は幕末の開国論者・横井小楠の高弟で肥後藩改革の中心人物として活躍、母は熊本女学校の創案者である。幕末の開国論者横井小楠に叔母が嫁ぎ、婦人矯風会創立者で女子学院初代院長の矢嶋楫子を叔母にもつなど、知名人に囲まれた環境にあった。 中でも5歳上の兄、蘇峰(本名・猪一郎)は、後に若くして明治文壇の雄となり、民友社を創立して「国民之友」や「国民新聞」を創刊したジャーナリストである。幼い頃から影響され続け才能をいかんなく発揮する兄との確執は成長するにつれ根深くなり、蘆花の作品にはとりわけ兄に対する感情を吐露したものも認められている。徳富の「富」の字に「冨」を使用した所にも兄に対する想いが垣間見られる。

転機となった結婚と兄との決別

幼い頃の蘆花は生来、癇癪持ちで体もひ弱、「弱虫・泣虫・怒虫」とからかわれていたという。ただ、学力は高く文学にも早熟であったため、秀才だった兄も一目を置いていた。一方、蘆花自身は賢いが厳しい兄を疎んでいたことを日記に記述している。 明治9年(1876)、蘇峰が通っていた熊本洋学校閉鎖に伴い、11歳の時に兄と共に同志社英学校に入学する。しかし明治13年(1880)、兄が中退して上京すると、彼もまた学校を辞めて熊本へ戻ることとなる。帰熊後は兄が開いた大江義塾に入校、いとこの横井時雄が牧師として居た四国今治教会や熊本英学校で教師をしながら学ぶ中で文筆をもって人を助けたいと志を持つようになり、すでに東京で活躍している兄のもとで働きたいと民友社に入社する。 新聞記者として翻訳などに従事する中、26歳の時に菊池郡隈府(現・菊池市)の名家に生まれた原田愛子と結婚。蘆花はこの結婚により自分を受け止めてくれる人と出会った。先に絵を習っていた愛子から絵を教えられ、日本各地の自然を探勝し、絵を描く一方で、文章でも自然を写生するようになり前向きになっていく。そんな蘆花だが、妻の身辺に対しては異常なほど神経質で嫉妬をし、しばしば愛子に対しても暴力を振って両家でも問題となるも、愛子は生涯蘆花を支え続けた。 一方、民友社での仕事に嫌気がさし作家として世に出たいと思っていた頃、逗子に行き美しい海岸に魅了された蘆花は、妻を連れて転居することを決意する。

ベストセラー作家から自然回帰へ、兄と和解する

そんな自然と触れ合う生活を送る蘆花に転機が訪れた。国民新聞に掲載され、後にベストセラーとなった長編小説「不如帰」の華々しい成功である。家庭内の新旧思想の対立と軋轢、伝染病に対する社会的な知識など、当時の大衆の嗜好に合致し広く読者を得たのだ。その後「自然と人生」「思出の記」を次々に刊行すると、いずれも蘆花自身をも驚かせる空前のベストセラーとなった。これに自信をつけた蘆花は兄と決別することを決意、明治36年(1903)に民友社を去り黒潮社を創設した。自費出版「黒潮」の巻頭には、兄との決別を告げる告別の辞を掲げている。 日露戦争後、蘆花はロシアのトルストイを訪問する旅に出た。帰国後、彼の勧めを受けて東京の郊外で半農生活を始めながら、随筆集「みゝずのたはごと」や一青年士官の悲劇と乃木将軍を描いた長編「寄生木」を刊行する。 晩年、蘆花は自然の中にあった。自宅で風の音に耳を傾け、日が昇ると畑へ出て汗を流し、その合間に小説を執筆した。 自適な生活をしていた蘆花だが、いよいよ先が長くないと感じると夫婦の思い出の地である伊香保に行きたがり、兄に会いたがった。生まれた時から偉大な存在だった彼の背中を追いかけ、時に越そうとし、時に真逆に背き、様々な軋轢があったが、最後に会いたがったのは兄だった。15年ぶりに兄弟の再会を果たした蘆花は、昭和2年(1927)9月18日60歳で幕を閉じた。

取材協力/徳富記念園 館長
参考文献/徳富蘆花(福田清人編/岡本正臣著)、弟 徳富蘆花(徳富蘇峰著)、二人の父・蘆花と蘇峰(渡邊勲著)

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