シリーズ 熊本偉人伝 Vol.31  ( 旅ムック102号 )
ほそかわ おきのり(げつおう)
細川 興文(月翁)

藩政改革に取り組み芸術を愛した
文武両道の宇土藩5代藩主

1723年(亨保8年)9月13日生誕〜1785年(天明5年)7月5日没 享年61才

二つの宝暦改革、二人の主導者 本藩の太陽、支藩の月

 江戸時代中期、全国の諸藩に影響を与えたとされる藩政改革を主導した肥後の名君として熊本藩6代藩主・細川重賢(しげかた)の名を挙げる者は多い。時を同じくして、もう一人の名君がいたことをご存じだろうか。宇土(うと)藩(熊本藩の支藩)の藩政改革を主導した、5代藩主・細川興文(おきのり)である。その興文は政(まつりごと)もさることながら、茶道や俳句、詩歌にも精通した文化人としても名を馳せ、隠居後は月翁(げつおう)の名で活躍した人物である。

 享保8年(1723)、宇土藩3代藩主・細川興生(おきなり)の三男として宇土で誕生した興文は、幼くして家老・井門(いど)家の養子となる。家臣の家で育ったこと、本藩(熊本藩)儒臣・秋山玉山(ぎょくざん)に就いて学んだことで世事に通じた興文は、延享2年(1745)、兄・細川興里(おきさと)の急逝(きゅうせい)により宇土5代藩主となったのを機にその政治手腕をいかんなく発揮することとなる。まずは財政の再建を少しずつ推し進めて財源を蓄えると、藩校・温知館(おんちかん)の設立や上水道施設の大改修など、多岐にわたる大がかりな藩政改革を行った。

 一方「肥後の鳳凰(ほうおう)」と賞され宝暦の改革を成功させた重賢は、興文より5歳年長で熊本藩4代藩主・細川宣紀(のぶのり)の五男であり、通常であれば家督を嗣(つ)ぐ立場にはなかった。財政難の中、苦しい部屋住みの生活を余儀なくされており、家臣の養子となった興文と同様、世間との交わりがあり、庶民生活の実体験を持った。また、両名ともに兄の急逝に伴って突然家督を相続したという点も共通している。このように似た境遇にあった二人は、お互いに熊本・宇土間を行き来し、狩りや花見に誘いあうなど交流を深めながら、共に宝暦の改革に取り組んだ。歴史に名を残した重賢が「太陽」ならば、支藩の月翁は号の通り「月」ではなかろうか。

支藩として生まれた宇土藩で 興文が発揮した政治手腕

 宇土細川家は、熊本藩初代藩主・細川忠利(ただとし)の父・細川忠興(ただおき)の四男で島原・天草の乱で名を馳せた細川立孝(たつたか)に始まる。立孝を溺愛し、自分の隠居領である八代(やつしろ)城と所領3万石を与えようとしていた父・忠興。しかし、立孝、忠興の死が重なり、立孝の遺児・細川行孝(ゆきたか)が幼少だったため、当時の八代を統治できないと判断され、熊本藩2代藩主・細川光尚(みつなお)の所領のうち、宇土郡と益城(ましき)郡から合計3万石が行孝に内分され、宇土藩として成立。以降、明治3年(1870)の廃藩まで本藩との緊密な関係を保ち続けた。

 延享2年(1745)、藩主となった興文。参勤交代の費用に窮し、江戸にいる藩主一門の食事に事欠くほど悪化していた藩の財政再建に取り組んだ。能力の高い人材を登用し、大坂商人の協力を得て参勤交代の費用を工面。また、ろうそくや和紙の大量販売に向けて領内に原料を植えさせ、専門役所を作った。さらに、藩内の決まり事や仕事内容を細かく決めた「御定帳(おさだめちょう)」の見直しを命じ、併せて倹約を推奨した。

 中でも彼の政治手腕が光ったのは、轟泉(ごうせん)水道の全面改修だろう。寛文4年(1664)、城下町に良質な飲料水を確保しようと、宇土初代藩主・行孝によって行われた水道建設だったが、100年も経つと水道管の傷みが激しくなった。興文は従来使用されていた松橋焼(まつばせやき)の土管を宇土で採掘されていた馬門石(まかどいし)(阿蘇ピンク石)製の樋管に取り替える工事を行ったが、その際、月に1回宇土三宮社(現:西岡神宮)で開催していた富講(とみこう)(富くじ)の売上金を財源にしたといわれる。轟泉水道は、現在使用されている上水道で日本最古といわれ、江戸時代から続く水道は今でも100戸ほどの家庭の飲料水として使われている。

文化人としても誉高い興文 「月翁」としての隠居生活

 興文は、政治面だけでなく、芸術・文化面でもマルチな才能を発揮した。本藩茶道頭であった小堀長順(ちょうじゅん)に肥後古流(ひごこりゅう)の茶道を学び奥義を極め、尺八は琴古流(きんこりゅう)始祖・黒沢琴古に師事している。また、詩歌は当時の大名の中でも評価が高かったといわれており、絵画にも精通し特に蘭の花を好んで描いた。教育にも熱心で、藩校「温知館」(現:宇土市教育委員会付近)を設立し家臣の子弟を学ばせ、また家臣には軍学者の講義を受けさせ講武場で大砲術や弓術、馬術を練習させたといわれる。

 安永元年(1772)に隠居を申し出て月翁と名を改め、翌2年(1773)には自らが設計を行った「蕉夢庵(しょうむあん)」(現:宇城市不知火町桂原(うきししらぬいまちかずわら))に身を置く。風光明媚(ふうこうめいび)な地に自然の材料を生かして建てられた別荘の中で花鳥風月を愛し、詩文を詠み、酒や書、禅を楽しんだ。また同時に、まだ幼い新藩主を助け、政治的指導力を発揮した場所でもあった。

 天明4年(1784)に病で半身不随となった興文は次第に弱り、翌5年(1785)に宇土にて61歳の生涯を閉じた。それから3ヶ月後、後を追うかのように本藩藩主・重賢も死去。最後まで、二人の名君の人生は共鳴していた。

関連写真

協力/
宇土市教育委員会

参考文献/
宇土市史研究 第十二号・第十六号・第二十一号(宇土市教育委員会発行)、
新宇土市史 資料編 第二巻(宇土市発行)、
宇土の今昔百ものがたり(宇土市発行)、
西国大名の文事(雅俗の会編)、
永青文庫細川家の歴史と名宝(熊本県立美術館編集・発行)

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