シリーズ 熊本偉人伝 Vol.3  ( 旅ムック69号掲載 )
よこいしょうなん
横井小楠

生誕200年。幕末の激動期、世界の中の日本を見据えた思想家

横井小楠生没年
江戸時代後期 文化6年8月13日(1809年9月22日)〜明治時代前期 明治2年1月5日(1869年2月15日)

熊本が生んだ幕末維新期の開拓者

今から200年前の文化6年、熊本城下内坪井(現熊本中央女子高校地内)に、家禄150石の肥後藩士、横井太平時直(たいへいときなお)の次男として生まれた横井小楠(しょうなん)。動乱の中の思想家として、また「肥後にその人あり」とまで呼ばれた。
文化13年8歳の頃に藩校時習館に入学。文政5年14歳の時に水道丁(現在の安政町)に引越し、藩主から賞詞や金子などを2度受けた。25歳で居寮生を命ぜられ、さらに居寮長(塾長)に抜選されたのは29歳の時だった。しかし、時習館の学風に批判的だったことから、天保10年に保守的な藩上層部からにらまれ、江戸遊学を命ぜられ、林大学頭の門を叩くことになる。

思想家や教育家を輩出

江戸での小楠は、数々の学者と出会う。その中でも特に、藤田東湖(ふじたとうご)からは、後期水戸学の洗礼を強く受けた。しかし、酒失により帰国を命ぜられ、帰熊後70日の逼塞(ひっそく)に処せられる。ここで、小楠はこの失敗を活かし、時習館の文章や字句の解釈に力を注いだ【学校党】に対し、長岡監物(ながおかけんもつ)や元田永孚(もとだながざね)らと共に「学問の本領は実践躬にあり」と進め、現実に根ざした学問のあり方【実学党】を結成。またこの時に、私塾「小楠堂」を開く。小楠堂では、徳富一敬(とくとみかずたか/徳富蘇峰(そほう)・蘆花(ろか)兄弟の父)や矢嶋直方(やじまなおかた)らが入門した。

政界での仕掛人

嘉永4年には、小楠は、天下の名藩の地理・制度・財政・風俗など見聞を広めるため、徳富一義ほか1名を連れて北九州、山陽道、南海道、畿内、北陸道の20余藩を巡歴した。
嘉永5年、越前藩は、小楠に学校の創設にあたって教えを求め、「学校問答書」という建白書を作る。これには、吉田松陰(よしだしょういん)も感心し長州藩にも推薦しようとしたほどだった。
嘉永6年のペリー来航の頃に小楠は、安政2年47歳の時沼山津(ぬやまづ)へ転居し、塾を開いて主張を攘夷論から開国論へ移す。しかし【実学党】は、長岡監物の坪井派と小楠の沼山津派とに分裂した。
安政5年、越前福井藩松平春嶽(まつだいらしゅんがく)に賓師として福井に招かれ、「国是三論」を建言して藩政の殖産貿易に大いに功績をあげ、それに続いて松平春嶽が幕府政事総裁職に就任すると「国是七条(こくぜしちじょう)」も建言して幕府の内政や外交に影響を与えた。
のちに、小楠の福井での一番弟子、由利公正(ゆりきみまさ)が起草した「五か条の御誓文」にも小楠の理念が盛り込まれ、その縁で現在福井と熊本は姉妹都市になっている。ところが、小楠は、肥後藩士と酒宴中に尊攘派に襲われる。同僚を見捨てて逃げたとして肥後藩から罰せられる。これを、士道忘却事件という。

四時軒とゆかりの人々、その後

熊本の沼山津に帰った小楠は、美しい四季の景観を望むことが出来る住まいを「四時軒(しじけん)」と称し、座敷の障子にガラスをはめ込んだ。藩内からも「障子にビードロをはめた」と評判になったらしい。
さて、小楠の名声は高く、意見を求めて訪れる者の中でも、勝海舟(かつかいしゅう)の使いで坂本龍馬は「四時軒」に3度も訪問している。かつて坂本龍馬は、「俺の師は勝海舟、その海舟先生の師は横井小楠である。」と話したことに対し、勝海舟は「俺は今までに恐ろしいものを二人見た。一人は横井小楠、もう一人は西郷隆盛である。」と語った。
明治維新に入り、新政府は小楠を参与という位として京都に呼ぶ。明治政府の中心人物、岩倉具視(いわくらともみ)は多数の参与の中でも特に小楠を頼りに相談していた。
しかし、明治2年の1月5日、太政官に出仕して退朝する途中に6人の勤皇派(きんのうは)に襲われ、短刀を抜くも力尽き倒れた。享年61歳のことだった。墓は京都南禅寺の天授庵に葬られる。

受け継がれた教育と思想

この年、版籍奉還によって肥後の地は熊本藩へ。翌年の明治3年、細川護久(ほそかわもりひさ)藩知事らが、藩政改革に取り組む際、実行の中心は小楠の流れを汲む徳富一敬、竹崎茶堂らの門下生だった。小楠の遺志を継ぎ、小楠が果たせなかった、政治の理想・実現を目指し、明治の熊本を大きく変えた。これが、実学党政権の成立となる。
小楠の残したものは国家的統一の主張となり、議会設置の殖産興業への意欲となった富国安民思想、そしてもう1つ忘れてならないものとして世界平和主義がある。エゴイズムを超えて普遍的原理を協調し、日本は進んで万国平和のため努力すべきと念願した。

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