シリーズ 熊本偉人伝 Vol.19  ( 旅ムック85号掲載 )
ほそかわただとし
細川忠利

肥後五十四万石の初代藩主として徳川幕府の黎明期を支える

細川忠利生没年
天正14年10月11日生誕(1586年11月21日)〜寛永18年3月17日没(1641年4月26日)

父・忠興から学んだ大名としての政治哲学

戦国の混乱期に精緻な政治感覚を発揮し、教養人としても重んじられた祖父・藤孝(幽斎)、父・忠興(三斎)を持った細川忠利。加藤家改易後の肥後をおさめ、外様としては異例の54万石の大大名家に登りつめた政治力は、明治維新まで続く基盤となった。
忠利は、忠興と明智光秀の娘・玉(ガラシャ)の三男として、天正14年(1586)に誕生。15歳から徳川家に人質に出され、徳川家康の嫡男・秀忠に仕えた。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの前である。「中納言殿(秀忠)のご出馬お供できるように願い出るがよい。もしお供が許されなければ、二里でも三里でも前へ前へと出て、着陣(宿泊)ごとに挨拶せよ」と父・忠興が手紙を送るように、徳川家への忠誠心の証としての手駒の一つであった。しかし、その行動が報われ、徳川秀忠から「忠」の一字を与えられて元服。故あって一族は長岡姓を名乗っていたが、父よりも先に本姓の細川への復姓が許された。また、幕府の助言のもとに朝廷からは「内記」の職を与えられ、格別にかわいがられた。忠利としても、細川家の生き残りは徳川家の思惑次第ということが骨身に染みたことだろう。
慶長13年(1608)には、将軍家から忠利への縁組みがもたらされる。相手は、家康と血のつながりがある孫娘であり、秀忠の養女となった千代姫。元和5年(1619)には嫡男光尚が誕生し、翌年には、家督を譲られ豊前小倉藩主となる。父・忠興は隠居して三斎と名乗り、中津城を隠居所とした。

徳川政権の信頼を集め維新まで続く安定への布石に

徳川秀忠が亡くなった直後、寛永9年(1632)5月、肥後では加藤家が改易となる。幕府からの熊本受け取りの上司が派遣された際、忠利は人員の提供や道路の整備、小倉から熊本への案内図など、細やかな気配りで接待した。このような行動が、肥後拝領への決め手になったのだろう。誰もが欲しがる大国の肥後。外様とはいえ徳川家への忠誠心が厚い忠利を九州に置くことにより、福岡の黒田、佐賀の鍋島、鹿児島の島津といった大藩を牽制し、幕府権力の浸透が遅れていた九州を一気に手中に収めることになった。
同年、忠利は清正の霊位を先頭にかざして肥後に入国。熊本城天主に登り「あなたの城地をお預かりします」と、清正の墓所・浄池廟(本妙寺)に向かって遥拝した。清正に敬意を示すことで、領民を宥和しようと思ったのだろう。
 「ことのほか広き国にて候。城も江戸のほかにはこれほど広きを見ず候」と、満足した様子を息子・光尚に書き送っているが、入国当時の熊本城は、大地震による硝煙蔵の爆発があり、天守・櫓などの建物・石垣がかなり破損していた。忠利は破損箇所の修復に加え、石垣の継ぎ足しや掘りの拡張など、加藤時代の熊本城をさらに拡張・整備する修復計画を申請。3代将軍・家光はただちに許可し、忠利は順次、修復を実施していった。
熊本城を訪れると、加藤家の桔梗紋、細川家の九曜紋、そして防火のまじないとされる三つ巴紋を刻んだ瓦が混在する重要文化財の「宇土櫓」、傾斜の違いが一目でわかる「二様の石垣」などで、加藤家の築城時代、細川家の増築・修復時代それぞれの痕跡が垣間見れる。

今に受け継がれる忠利時代の文化や町割

大がかりな修復により美しく蘇った熊本城。しかし、忠利は本丸には住まわず、修復中の仮住まいであった「花畑屋敷」を国許屋敷と定めた。
もともとは、清正が熊本城築城の際に、城外に設けた御殿。庭には四季折々の花木や草花が植えられたことに由来し、風流を尽くした別荘だったという。坪井川から現在の花畑公園まで約1万5千坪の広大な屋敷は、明治維新まで歴代藩主の生活の場となった。また、茶屋を作事し豊後の羅漢寺を移して水前寺を創建。後に孫・綱利によって大規模な造園がなされたのが現在の水前寺成趣園である。ちなみに羅漢寺の禅僧・玄沢は、病弱だった忠利に蓮根を食べるようにすすめ、これが熊本の郷土料理「辛子蓮根」の誕生のきっかけとなった。
一方で、熊本城内の西ノ出丸一帯に奉行所を設置。細川一門、譜代の重臣である松井・米田・有吉などで政治の中枢部を構成し、その下に郡奉行・代官以下を支配した。また、郡村支配のため、郡を「手永」に分け、手永の中に村を作った。さらに、在地有力者を惣庄屋として各地域のリーダーにし、農民から年貢を取り立てるという行政制度を完備。町方支配のため、熊本、高瀬、高橋、川尻、八代からなる五ヶ町制度を作り、商工業の発展を促した。

幕府最大の危機で示した藩主としての力量

寛永14年(1637)10月、島原(長崎県)の口之津でキリシタンが中心となって代官を殺害する事件が起こった。これが島原の乱の発端となり、弾圧されるキリシタンのほか、過酷な年貢の取り立てに耐えかねた島原・天草の農民、旧有馬家の遺臣に広がり、原城(長崎県南島原市・現在は跡地)を占領した。一揆は、唐津藩の飛び地であった天草大矢野まで拡がり、幕府からの出兵命令が下りない間に、反乱は次第に拡大していった。
西国大名の嫡子に帰国の命が下り熊本に帰った光尚は、八千ほどの兵を率いて川尻から島原に着港。原城攻めに参加した。江戸詰であった忠利も、翌年、九州諸大名の出陣が命じられ、瞬時に東海道を下り、熊本にも寄らずに島原の戦場へと赴いた。幕府軍が原城を包囲した頃の兵力は、約8万5千。その中でも最大の兵力は約3万あまりの肥後勢で、他藩に比べると戦場経験が豊富な武士も多かった。三の丸という戦線の側面を担当していたにも関わらず、本丸一番乗りを得、さらには天草四郎の首まで揚げたことにより大いに武名を轟かせた。

武芸を尊び、晩年の武蔵を招く武士らしく生き抜いた56年

祖父や父のように、和歌や茶道もたしなむ文人だったが、忠利が最も熱心に携わったのが武芸だ。若い頃から柳生宗矩の門下に入門し、新陰流の代表的な剣士の一人として揚げられるほどの腕前。宗矩からも高く評価され、秘伝の「兵法家伝書」を与えられている。
また、晩年の宮本武蔵を招き、食客として厚遇したことでも知られる。藩主が光尚になっても武蔵への優遇は続き、光尚をはじめ、藩主一族から士分、身分の軽い者まで、武蔵の門弟は千人あまりいたという。金峰山、雲巖禅寺の裏山にある霊巌洞にこもり「五輪書」を執筆し、細川家の庇護のもと、流浪の人生を終えた。
祖父・幽斎、父・三斎に比べると、忠利は特別個性的とは言えない。しかし、安定した世の中では、為政者には強烈な個性よりも、慎重で実直さが求められる。その点ではこの時代の大名として、忠利はまさに適任であった。
島原の乱の後、再び泰平の世がめぐってきた寛永18年(1641)1月、忠利は隠居所として八代城(熊本県八代市・現在は跡地)にいる父・忠興(三斎)の元を訪れ、その帰路につく途中、突然の病に襲われる。同年3月17日、父に先立って死去した。56歳である。徳川家光は「越中(忠利)早く果て候」(死ぬのが早すぎた)と嘆いている。
病の床につきながらも最後まで予定していた江戸参府を気にかけていたという忠利。徳川家への厚い忠誠心により、細川家は藩主として明治維新まで12代続いた。

参考文献/名城をゆく① 熊本城(小学館「名城をゆく」編集部著)。
     細川三代 幽斎・三斎・忠利(春名徹著)。
     永青文庫 細川家の歴史と名宝(熊本県立美術館著)

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