激動・肥後維新の真っ只中に赴任し熊本の産業振興に貢献したアメリカ人教師
1837年3月27日生誕〜1909年3月27日没 享年72
激動・肥後維新の真っ只中に赴任し熊本の産業振興に貢献したアメリカ人教師
1837年3月27日生誕〜1909年3月27日没 享年72
前編では、ジェーンズの来熊から熊本での教育方針を中心に触れてきたが、後編では衣食住の安定をはじめとする日常生活の充実を基盤に身を呈して地域社会への啓発活動に尽力したことについて、また、生徒が結成した熊本のキリスト教信者グループいわゆる「熊本バンド」の余波や熊本を離れることに至るまでを追っていくこととする。
当時、寮の隣に建てられていたジェーンズの住まいは、二階建ての擬洋風建築で煙突のある暖炉があった。現存する洋風建築としては熊本最古であり、現在は4度目の移築場所となる。
調度品だけでなくアメリカの生活環境を再現した設えは、ジェーンズ一家が快適に暮らせるよう配慮されていた。ジェーンズは、熊本の人々に家を開放し、生活環境の通気性や快適さ、清潔さの必要性を説いたという。
そして問題は住環境だけではなかった。その頃、栄養不足などにより脚気や壊血病が蔓延しており食生活の改善は急務の課題の一つだった。手始めに洋学校で西洋野菜を栽培することにしたジェーンズは、ニューヨークから種を取り寄せ、エンドウ、ネギ、キャベツ、カリフラワー、レタスを育て、それが軌道に乗るとアメリカから農機具を取り寄せて新しい耕地の開拓や農作業の効率化に貢献する。ある時は、小麦でパンを焼き、またある時は生乳の生産計画も行われ、毎日良質で新鮮な牛乳が生産されるようになった。これまで塩漬けのものばかりで栄養が十分ではなかった学生たちに、牛肉と野菜がたっぷり入ったスープやローストビーフが振る舞われることもあった。こうして、パンと牛乳と牛肉が熊本じゅうに広まり、栄養補給と体質改善が少しずつ行われたのである。
明治6年(1873)、ジェーンズは東京と横浜にしかなかった印刷機を熊本に導入する。それにより、数種類の定期刊行物が出版され、日刊の全国紙も現れるようになった。熊本初の「白川新聞」が発行されたのは、明治7年(1874)のことである。その影響を強くうけ、後にジャーナリストとなったのが徳富蘇峰である。
4年目ともなると、制度は格段に整備され、カリキュラムも細部に渡って充実したものとなる。アメリカ式の学校制度がようやく定着し、学校関係者から高い評価を受けるようになった。教育の中で、生徒たちの関心は次第にジェーンズの思想の根幹にある宗教へつながっていった。
勉強とは別に一部の生徒たちからキリスト教について教えを乞われたことを機に、毎週土曜日に自宅で聖書研究会を始めたジェーンズ。次第にこの参加者の中から熱心なキリスト教信者が現れ始め、このことがのちに洋学校の内外に大きな波紋を広げることになるとはこの時は誰も予想していなかったであろう。
明治維新後、新政府が推進していた欧化政策に反し今までの神道を重んじる人々もいるという刻々と思想が変わる時代の中、ある日、花岡山に呼び出されたジェーンズは、生徒たちに「キリストの精神で自分たちの民族と人類のために奉仕をする」という内容の誓約書を見せられる。これがキリスト教奉教宣言であり、後にいわゆる「熊本バンド」と呼ばれた起源・出発点である。家族などにキリスト教を反対されたメンバーは幽閉や勘当等厳しい弾圧をうけたという。この騒動により生徒の分断やキリスト教教育の反対もあり、ジェーンズの任期満了をもって、明治9年(1876)夏に洋学校は閉鎖され、熊本バンドメンバーのほとんどが同志社へ転校した。ジェーンズ一家は同年10月に熊本を去ることになる。日本最後の内乱「西南の役」のきっかけともいえる熊本の反政府士族が起こした神風連の変は、彼が大阪へ向けて発った直後の出来事である。その後、大阪英語学校赴任を経て米国へ帰国。明治26年(1893)再来日して京都や鹿児島の中学校で英語教師を務め、晩年カリフォルニア州で過ごしたジェーンズは、明治42年(1909)奇しくも誕生日と同じ日に72歳の生涯を閉じた。
大きく揺れ動く明治という時代を熊本で過ごしたジェーンズ。ここで、生徒たちに西洋の教育を行うだけでなく、日本人の日常生活の合理化、民主化、近代化のために熱心に取り組んだその姿勢は、敬虔なる教育者としてこれからも私たちの心に印象深く刻まれることだろう。
【協力】熊本市文化財課
【参考文献】
ジェーンズ熊本回想(熊本日日新聞社 発行)
ジェーンズが遺したもの(熊本県立大学 編著)
熊本洋学校とジェーンズ熊本バンドの人びと(潮谷宗一郎 著)