シリーズ 熊本偉人伝 Vol.17  ( 旅ムック83号掲載 )
ふたやすのすけ
布田保之助

民のために生涯を捧げた郷土の偉人。国の重要文化財「通潤橋」誕生秘話

布田保之助生没年
1801年12月31日生誕(享和元年11月26日)〜1873年(明治6年)4月3日没

不毛の地に水を!惣庄屋・布田保之助の挑戦

清らかな水と寒暖の差が激しい気候によって、高品質な農作物が育つことで知られている旧・矢部町(合併後、山都町に)。豊かな自然に恵まれているように見えるこの白糸台地は、実は深刻な水不足に悩まされた不毛の大地であった。周囲をいくつもの河川に囲まれていながら、浸食作用による深い谷に阻まれて河川の水を利用できず、飲料水にもこと欠く状況。荒れた土地は深刻な貧困を招き、人々の心まで荒ませていた。村人たちは何とかして村勢を立て直したいと切望していたが、困難な自然環境の中、ただ苦しむ他になかったのである。そんな矢部の民を救おうと立ち上がり、人生を賭して通潤橋の建設に取り組んだのが、時の惣庄屋・布田保之助であった。

父から受け継いだ遺志。通潤橋建設への道程

布田保之助が生を受けたのは、享和元年(1801)、第11代徳川家斉の治世である。代々惣庄屋として矢部を治めてきた布田家であったが、その歴史は決して平坦なものではなく、村人は先述したとおり深刻な水不足に悩まされ続けていた。中でも保之助が10歳の頃に没した父・市平次は「矢部の民の夫役を少しでも軽減したい」との強い願いから、抗議の自害を行ったことで知られている。その遺志を胸に刻んだ保之助もまた、固い決意を持って、数々の施策を行っていた。23歳で惣庄屋代役に抜擢された保之助は、61歳で隠居するまでの38年間、道路や橋の新設、用水路の延長、産業振興に至るまで多大な業績を挙げている。中でも最後の大仕事となったのが、前代未聞の通水橋「通潤橋」の建設であった。
白糸大地を潤し、農地を拓くには、巨大な橋の上に水路を築き、水を渡すしかない―。有益な情報があればどこまでも足を運び、見聞を重ねた保之助は、1つの結論に達する。この着想こそが、白糸台地を緑豊かな農村へと導いた、通潤橋誕生への第一歩である。

困難を極めた建設工事。試行錯誤の果てに

通潤橋は、全長75.6m 幅6.3m 高さ20.2mの巨大な石造の眼鏡橋である。従来にない技術を要する橋の建設は、いうまでもなく困難を極めた。また、その工費は莫大なものであり、藩からの補助を獲得すべく、保之助は奔走する。詳細な計画を記した「奉願書」を提出し、藩から下問された懸案事項に対しては「御受申上候覚」をもって明確な返答を返した。そうした保之助の地道な努力と人柄は徐々に人々の心を動かし、当事の郡代である上妻半右衛門をはじめ、多くの人が協力を申し出たという。そして嘉永5年(1853)、保之助の計画は遂に認められ、藩から許可と補助を得るに至った。
そうと決まれば、いよいよ着工である。熊本城の石垣の頑強な石積技術にヒントを得た保之助は、当代きっての石工集団・種山石工に協力を要請し、頑丈な石橋を造り上げ、漏水を防ぐため特殊な漆喰を使って通水管を完成させた。その甲斐あって今日に至るまで、通潤橋は地震や洪水の影響をものともせず、150余年前と同じ悠然とした姿を保っている。
また、通潤橋は2つの地区を結んでいるが、橋は両岸の地区よりも低い位置にあるため、高台の白糸台地まで水を押し上げるためには非常に高い技術を要した。日本初の先進技術であった通水橋の完成のため、保之助は何度となく実験を繰り返したと記録されている。工事には地元を中心に5万人以上の人夫が参加し、通潤橋建設は、地区を挙げての大事業となった。

今も愛される町のシンボルと後世に受け継がれる保之助の想い

保之助を先導に、行政と民が一体となって行われた通潤橋建設。単一アーチ式水路石橋という特異な構造と物理的原理を見事に応用したその出来ばえは、現在の技術と比べても何ら遜色がないと称えられ、昭和35年(1960)に国の重要文化財に指定されている。
竣工当初は「吹上台目鑑橋」と呼ばれていた通潤橋は、当事の肥後藩大奉行・真野源之助が中国の儒学書「周易程氏伝」の漢詩「澤在山下其気上通潤及草木百物(サワハサンカニアリ ソノキウエニツウズ ウルオイハ ソウモク ヒャクブツニオヨブ)」から、「通潤橋」と名付けられた。現在も貴重な水路として、また町のシンボルとして愛され続けている。そして通潤橋の父ともいえる保之助の存在もまた、人々の心に深く刻まれることとなった。
風雪30余年に耐え、根気強く通潤橋造りに努めた保之助は、現在でも“布田保之助翁”と呼ばれ親しまれている。その功績を称えた地元有志の手によって、布田神社が建造された他、銅像も在りし日の保之助の姿を今に伝えている。保之助の偉大な精神と事業は、通潤橋の名とともに今後も語り継がれていくことだろう。

参考文献/「通潤橋架橋150周年記念誌」通潤橋架橋150周年記念誌事業編集委員会/編
     「通潤橋と布田保之助資料集 複写版」熊本県立図書館資料課/編参考図書

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