シリーズ 熊本偉人伝 Vol.47  ( 旅ムック122 )
たねだ さんとうか
種田 山頭火

仏門に入り行乞をしながら数多の句を生んだ
生き方も俳句も型にはまらない放浪の俳人

明治15年(1882)12月3日生誕〜
昭和15年(1940)10月11日没 享年59

旅と句と酒を愛した自由人 山口から熊本へ、そして全国へ

「分け入っても分け入っても青い山」。誰もが一度は耳にしたことがあろうこの俳句を詠んだのは、自由律俳句の代表的俳人として知られる種田山頭火。しかしながら、その生き方も俳句同様、型にはまらない自由さを伴っていたことは、あまり知られていないかもしれない。

生誕の地である山口県防府市では、経営していた酒造場が倒産、妻子を伴って熊本市に移り住み古書店を構えるものちに離婚。その後の出家を機に放浪の旅に出る。漂泊の旅と一時の定住を繰り返した山頭火だったが、愛媛県松山市に構えた庵で59年の人生を終えた。

今回は、後に「水のような、雲のような、風のような生き方」と称される山頭火が、熊本の地で何を思い、どのように過ごしたのかを探ってみたい。

山口で俳句に触れるも 家業の廃業で熊本へ

明治15年(1882)、現在の山口県防府市に父・竹治郎と母・フサの長男として生まれた山頭火(本名は正一)。種田家は代々続く大地主だったが、父親が政治運動にのめり込んだことを機に、山頭火が10歳のときに母親が自殺。この出来事は彼の心に深い傷を与え、その後の人格形成にも影響したと考えられる。

地元の中学を卒業後は、早稲田大学で文学の才覚を表すも神経衰弱を患い帰郷。父親が始めた造り酒屋を手伝うようになった。明治40年(1907)のことである。その2年後、同郷の佐藤サキノと見合い結婚し、長男・健が誕生した。

俳号として山頭火を使い始めたのは、大正2年(1913)のことで、荻原井泉水に師事し、雑誌「層雲」に初投句したことがきっかけとなった。こうして俳句に触れた山頭火は、自由律俳句という五・七・五にこだわらない自由なリズムの俳句を作るようになる。

そんな彼に転機が訪れたのは大正5年(1916)。「層雲」の選者に昇格した矢先、酒造場が破産して一家離散となる。窮地の山頭火一家が頼ったのは、俳句を通じて知り合った同じ山口県出身で熊本の第五高等学校に通っていた兼崎地橙孫で、同年4月に妻子を連れて熊本市に移り住んだ。

その頃、地橙孫を中心に若者による俳句運動がなされており、俳誌「白川及新市街」を発行していた。彼らは本を持ち寄り、山頭火に古本屋を開かせた。現在の中央区下通アーケード付近で誕生した古書店「雅楽多書房」である。

仲間に愛され、助けられ 俳句を通して生まれた絆

当初は古本のみの扱いだった雅楽多書房だったが、売上のために雑誌や額縁、花札や絵葉書、ブロマイドなども扱うようになっていった。そんな中、大好きな酒のために売り上げを持ち出したり、文学に没頭するあまり店番がまともにできなかったりと、気ままな山頭火に対し、家業も家事も育児もこなす妻との溝は深まるばかりだったという。

大正6年(1917)1月号の「層雲」には、熊本での半年間の生活で、早くも虚無感が重くのしかかっている様子が分かる随筆を掲載している。その後の弟の自殺や祖母の死などを機に、ますます心中穏やかでなくなった山頭火。追い打ちをかけるように、同期たちの輝かしい活躍を目の当たりにし、その焦燥感たるや、幾ばくのものであったろうか。大正8年(1919)には、熊本の短歌仲間を頼り、妻子を残して上京することとなる。この身勝手ともとれる行動により、妻の実家も彼を許さず離婚が成立。一方で、また別の熊本の仲間の援助を受け、東京市事務員として一橋図書館勤務となった。

大正12年(1923)には関東大震災で被災し、その混乱の中で社会主義者と疑われ巣鴨刑務所に拘置された山頭火。幸いにも熊本仲間の親族による口利きで放免され、熊本に逃げ帰ることができた。 東京で心機一転、文学界で花開くことを夢見た山頭火だったが、現実はといえば、俳句で思ったほどの結果も残せず、散々な憂き目に遭い、結局は元妻の店に居候することに。将来の見通しも立たず、理想と現実とのギャップに苦しめられたであろうことは、想像に難くない。すべてが投げやりになり、失意のどん底で抜け殻のように酒に溺れた山頭火が、泥酔して公会堂前で熊本市電の前に立ちはだかるという暴挙に出たのは、熊本に戻ってから約一年後のことである。

出家から全国行脚へ 最期は松山市の庵にて

市電をとめるという一連の騒動を目撃していた上通町の木庭市蔵に伴われ、坪井町の曹洞宗報恩寺に連れて行かれた山頭火は、住職・望月義庵のもとで禅門に入ることとなった。

出家し耕畝と改名、熊本県鹿本郡植木町味取(現:熊本市北区植木味取)の観音堂の堂守となるも、約1年数ヶ月後の大正15年(1926)、突如として行乞流転の旅に出る。その時期に同じく自由律俳句の俳人である尾崎放哉が亡くなり、墓参りに出向くためであった。

九州、中国、四国地方と行乞をする中で、自由を謳歌しつつも、常に迷いや葛藤を抱えていたと思われる山頭火だったが、何よりも俳句を心の拠り所とし、仲間を訪ね歩いて俳句談義に花を咲かせたことで、あの有名な「分け入っても分け入っても青い山」が誕生することとなった。

この句を含む行乞7句を「層雲」に掲載。これを皮切りに句境が一変し、自らの存在意義を体現するかのごとく、自由律俳句に開眼していく。なお、小豆島の放哉の墓を詣でたのは、昭和3年(1928)7月とされている。

その後も、全国転々と旅を続けては句を詠んだ山頭火。昭和14年(1939)には四国を巡り、松山市に「一草庵」を構えた。翌年の昭和15年(1940)10月10日、一草庵で寝ている間に隣室で句会が行われるが、翌日未明に死亡が確認された。

旅と句と酒に生き、自由を愛した山頭火。根底にある悲哀さえも俳句の中に落とし込み、それが時に個性となった。そんな彼の生き様に憧れ、救い、慕った仲間たちを見るにつけ、彼が多くの人々に愛されてたことは言うまでもない。山頭火が全国を巡り遺した俳句の数々は、今なお、人々を魅了し続けている。

いつも隣に山頭火(井上智重 著)
総合文化誌KUMAMOTO30号~33号
種田山頭火の熊本時代(古川富章 著)
熊本県の近代文化に貢献した人々
(熊本県教育委員会 編集・発行)

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