シリーズ 熊本偉人伝 Vol.12  ( 旅ムック78号掲載 )
のじろきんいち
野白金一

赤酒の国から吟醸酒の名産地へ。熊本の清酒の礎を築いた酒の神様

野白金一生没年
1876年(明治9年)12月18日〜1964年(昭和39年)10月22日

トロリと甘い赤酒から時代はキリッと濃醇な清酒へ

54万石の城下町として発展した肥後熊本。人多く物資も豊かなこの地では酒造りも盛んに行われ、加藤清正の入国以来、約300年間、熊本で酒と言えば赤酒を指していた。
赤酒は、醸造した醪に腐敗防止のために灰を混入させた灰持酒の一種。細川藩では赤酒を御国酒と定め、これ以外の酒造りを認めていなかった。冬に暖かい日も多い熊本の気候も、清酒造りの広がりを妨げていたのかもしれない。
藩政によって守られ、市井の人々に好まれてきた赤酒だが、明治維新後は状況が一変した。物資や人の流通が自由になったこともあり、県外で製造される清酒が流入。さらに西南戦争により県内の産業は荒廃し、酒の生産も低下していった。これに代わり、人々の嗜好を捉えたのが、香りよく濃醇な清酒だ。県下の需要が赤酒から清酒へと移り変わるとともに、赤酒のみを造ってきた熊本の酒造業界も赤酒から清酒へと切り替える大きな転換期を迎えた。
しかし、長年、赤酒の製造に慣れ親しんできただけに、いざ清酒造りに挑んでもなかなか良質の酒ができない。赤酒を仕込んだ蔵で清酒を造るのだから、蔵付き酵母等の働きなどもあり赤酒風味の清酒しかできなかったのだろう。当時の県知事・富岡敬明は県の産業革命として、米の改良、養蚕の改良、そして清酒の改良を掲げたが、米と蚕は成功したものの、酒の改良だけが満足できる結果を出せないでいた。その頃である。酒造りの指導者として野白金一が赴任した。

経験と勘による仕込みから化学を取り入れた醸造へ

野白は明治9年、島根県松江市の清酒も造る醤油醸造家の長男として生まれた。幼い頃から秀才であったが、病弱な子どもだった。健康上の理由から進学を思いとどまり、家業を手伝い始めたのが好機となる。蒼白い顔はみるみると血色がよくなり、健康回復と同時に勉学の意欲も再びわき上がり、家業を継ぐことも考えて東京高等工業(現・東京工業大学)の応用化学科に入学。首席で卒業し、明治34年松江税務管理局(監督局の前身)に就職、郷里の松江で酒造りの指導者として歩み出した。
明治36年、26歳の野白が赴任したのは、全九州を統括し指導管理していた熊本税務監督局鑑定部(現・熊本国税局鑑定官室)。翌年冬からは酒造りの講習を任され、出雲なまりを響かせながら県下各地を巡回。これが「巡回指導」の草分けである。5年後には鑑定部長に昇進、31歳の若き鑑定部長の誕生である。
野白は熊本の清酒を全国レベルに成長させるには「赤酒退治」が必要だと考えた。「赤酒を造る蔵で、赤酒を造る杜氏が清酒を造っても、熊本の清酒は進歩しない」と酒造メーカーを説いて歩いたが、「赤酒は自慢の御国酒」である。すぐさま黙って従う者はいなかった。しかし、熱心に説き続けるうちに、野白の言葉に耳を傾け、積極的に指導を受ける蔵が次第に現れるようになった。
声も大きく話し上手、酒席では冗談も言う、明朗快活な人柄も人を惹きつけていったのだろう。それ以上に、経験と勘を頼りにしていた酒造りを、化学の知識を持って改革しようという理論が、いい酒を造りたいという生産者の探究心に火を点けたのかもしれない。野白の指導を受けた酒造場は、年々良い酒を造るようになり、巡回講習の成果も相乗して、赤酒のメーカーも清酒造りに意欲を見せるようになっていった。

酒造業界の探究心が形になった熊本県酒造研究所が誕生

明治41年、熊本の清酒を発展・増産させるには、品質の改良が第一。そのためには、研究所を設置して、熊本の風土に合った酒造りを模索しなければならないと、酒造メーカー自身から進歩的な声が上がってきた。野白が蒔いた種が芽吹いた瞬間だ。しかし、研究所をどこに造るのか、できた酒はどうするのかという問題が浮上。しかも、研究所がどういう結果をもたらすのか、不安材料は山盛りだ。この時、手を挙げたのが、熊本市川尻にある瑞鷹だった。当時、吉村彦太郎・和七の兄弟で営んでいたが、特に弟の和七が熱心に取り組み、蔵を増設し、仕上がりが悪かろうができた酒は吉村家で引き取ると決意を見せた。こうして瑞鷹の酒蔵の一画で、熊本県酒造研究所が明治42年8月に産声を上げた。
大正3年の全国新酒鑑評会では、早くから野白の指導を受けていた玉名郡伊倉村(現・玉名市伊倉)にある高田屋の「初幣」(現在廃業)が、初出品でトップ入賞を果たす。京都や秋田といった酒処を押さえて、熊本県酒として初めての1位入賞だった。
大正7年には、「瑞鷹」が熊本県酒2度目の1位入賞。赴任から14年。熊本の酒造改革がいかに困難であったかを物語っている。
ところが大正6年、野白の元に広島転任の辞令が発令される。野白の酒造改革が成功の兆しを見せ始め、酒造業界が一丸となって改革に取り組もうとした矢先だった。生産者たちは野白に熊本に留まって欲しいと懇願し、野白も決心して辞表を提出するも、お上が簡単に受理するはずがない。熊本の業界の想いを知った大蔵省が、熊本監督局技師兼任の新しい辞令を出してくれたが、酒造期間だけであった。業界の「野白先生辞職聴許」運動があの手この手で続けられていた。その想いが実ったのは大正8年のこと。官を辞し、熊本に帰ってきた野白を迎えて熊本県酒造研究所は本格的に始動。大正11年には、現在地である熊本市島崎に研究所と酒蔵を造り、県民から公募した「香露」の銘柄で醸造を開始、県産酒の品質向上・技術者育成に尽力する。昭和5年の全国新酒鑑評会では、出品総数約4千点ある中で、1、2、3、5位を熊本県酒が独占する快挙を果たし、清酒の後進県であった熊本が、一躍全国有数の清酒の名産地へと変貌を遂げた。

現代の酒造りにも活かされる「酒の神様」の知恵と技

昭和60年頃、酒造関係者の間でよい酒ができる条件として「YK35」という言葉が広まった。Yは酒米の山田錦、Kは熊本酵母、35は精米歩合を指す。この酵母は、野白が香露の蔵付き酵母から分離させたもので、昭和26・27年頃に誕生。熊本酵母を使った吟醸酒はことさら香りがよいと、杜氏から杜氏へ県内外に広がり、協会9号酵母として日本醸造協会が全国の蔵元へ頒布するようになった。ほかにも、麹室の空気を換気する「野白式天窓」、サーマルタンクの原形と言える「二重桶方式」、醪を入れた袋を吊り下げて酒を搾る「首吊り法(袋吊り法)」など、野白の創意工夫は業界誌などで公開し、全国の酒造りに用いられていった。いいと思ったものは後輩の研究でも外国の理論でもどんどん取り入れ、自分のアイデアは誰にでも教えるなど清酒品質向上の為に生涯を捧げた。昭和39年、87歳でこの世を去るまで、技術者として進歩し続け、愛酒家であった野白は、多くの仲間から、そして現在の酒造家からも「酒の神様」と尊敬され続けている。

取材協力/瑞鷹株式会社 株式会社熊本県酒造研究所
参考文献/酒の神様野白先生(野白先生謝恩刊行会発行)

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