54万石の礎を築いた清正公さんの治水・土木事業
加藤清正生没年:安土桃山時代
永禄5年6月24日(1562年7月25日)〜江戸時代前期 慶長16年6月24日(1611年8月2日)
54万石の礎を築いた清正公さんの治水・土木事業
加藤清正生没年:安土桃山時代
永禄5年6月24日(1562年7月25日)〜江戸時代前期 慶長16年6月24日(1611年8月2日)
豊臣秀吉の腹心として数々の武功を挙げた加藤清正。賤ヶ岳七本槍や朝鮮出兵での虎退治のように武断派のイメージが強いが、天正16年(1588)から居城となった熊本では、土木事業や商業政策でも優れた手腕を発揮した。
清正が入国した当時の熊本は、肥後国人一揆によって領地は荒廃。菊池川、白川、緑川、球磨川という四大河川が洪水を起こし、人家や田畑に甚大な被害を与えていた。そこで清正は、土木事業によって領地を再生させ、農業生産力の増大、安定によって肥後藩経済の礎を構築。民心の立て直しを果たし、死後400年経った今でも「清正公さん(セイショコさん)」と人々に親しまれている。
清正の土木技術が優れていることは、築城の名手として知られることでもわかるだろう。熊本城をはじめ、名古屋城、江戸城、文禄・慶長の役に際して築かれた名護屋城(現唐津市)や蔚山倭城(韓国)など、数々の築城に携わったが、そのうち二つが日本三大名城に挙げられるのは、天賦の才としか言いようがない。
清正入国以前の隈本城(古城)は中世の小規模な城であったため、防御の強化には新たな築城が必要であった。そこで清正が立てた計画は、茶臼山一帯の城塞化と、白川・坪井川の流路を改修し城下町を整備拡張すること。しかし、当時の白川は大きく蛇行し、加えて坪井川と井芹川の3本の川が入り乱れて氾濫が起きやすい状況であった。そこでまず白川を直線化し、城の外堀としての防御機能を持たせた。また、白川と切り離された坪井川は、城の内堀として茶臼山の裾を流し井芹川へ合流。井芹川は下流の二本木付近で白川と合流していたが、石塘(背割堤)を築いて分離させ、新たな坪井川として河口の高橋(現在の百貫港、熊本市小島町)まで一本の川につなげた。
白川・坪井川の河川改修の結果、旧坪井川一帯に一大武家屋敷を構成することができ、改修によって水量と水深が確保された坪井川は城下町と有明海とを結ぶ物流ルートとなり、大正時代まで重要な役割を果たすこととなった。
清正の土木事業は城下町だけに留まらず、各地で治水や新田開発のための灌漑が行われた。なかでも、当時の灌漑システムが現在でも田畑を潤しているのが、菊陽町馬場楠から熊本市大江渡鹿までの総延長13㎞の灌漑用水路・馬場楠井手の「鼻ぐり」だ。馬場楠井手は、馬場楠堰とともに慶長13年(1608)に築造。阿蘇に源を発する白川は火山灰土壌のため、火山灰土砂の堆積がひどく、堰から白川の水を引く井手の管理も一苦労であった。さらに菊陽町の曲手から辛川の区間は、地上から井手底までの深さが約20mもあり、人力でヨナ(火山灰土砂)を排出するのは困難。そのために清正が考案したのが、水力を利用して土砂を次々に下流へ排出するという「鼻ぐり」という仕組みだ。
「鼻ぐり」の造りは、岩盤掘削時、2~5mの間隔で高さ4m、幅1mの仕切岩盤を残し、水の通る下辺に直径約2mの穴を交互にくり抜いたもの。上流より流れ来る水は、「鼻ぐり」を通過時に渦を巻きながら流れる事になり、この水の動きによって火山灰は舞い上がり、底に堆積することなく下流に流されていく。隔壁に開けた水流穴の形が牛の鼻輪を通す穴に似ていることから、「鼻ぐり」と呼ばれるようになった。この工法は全国的にも類がなく、清正が整備した当時は約80基あったが、現在では24基を残すのみとなっている。
ほかにも、白川の下井出堰、渡鹿堰、菊池川の石堰による付け替え、緑川の鵜の瀬堰、球磨川の遙拝堰など、四大河川の治水と灌漑にも着手した。
清正は入国の翌年、天正17年(1589)に玉名市横島の干拓にも着手。以来、干拓は加藤氏から細川氏へと引き継がれ、江戸、明治、大正と続き、昭和42年(1967)に潮止めが行ったのを最後に、現在にいたっている。
広大な八代平野の大部分も干拓によって造られたものだが、この干拓の歴史の先鞭をつけたのも清正だ。清正は、八代の北、千丁町(現八代市)の新牟田あたりを干拓し、球磨川に設けた遙拝堰から引いた水を農業用水とした。
ほかにも、菊池川の改修とともに造られた玉名市の「高瀬船着場」(現在は跡地)、古来から活用されてきた港を再整備し、軍港・商港として発展した川尻の「御蔵前船着場」(現在は跡地)を設置。豊前、豊後、薩摩、日向の四街道を設け、海上・陸上ともに交通路の整備にも力を尽くし、この事業は細川家にも受け継がれていく。 清正が領主として肥後国を統治したのは24年。その間にも、名護屋城普請や朝鮮出陣などがあり、実際に熊本に腰を据えていたのは実質15年ほどだ。この短期間に、熊本城を建設しながら多くの暴れ川から城下町と田畑を守る治水工事を行い、荒れた土地を肥沃な田畑に改造するという土木工事を成し遂げことは、現代の土木技術から見ても驚異的なことだ。
「その土地を念入りに調べ、川下の人々の迷惑にならないようにし、川守や年寄りの意見をよく聞くこと」。これは、清正が工事担当者に注意した言葉だが、自身の知恵やアイデアだけでなく、飯田覚兵衛(いいだ かくべえ)、森本儀太夫(もりもと ぎだゆう)をはじめとした優れた部下たちの意見に耳を傾けたことも、事業がスムーズに運んだ所以だろう。また、莫大な人手をまかなうため男女問わずに動員されたが、事業の多くは農閑期に行われ、きちんと給金を払ったため、民衆は喜んで協力したという。
清正が400年後の熊本を見据えていたかどうかはわからないが、現場でも先頭に立ったという土木事業の片鱗が、熊本の随所で今なお息づいている。
参考文献/伝記 加藤清正(矢野四年生 著)