シリーズ 熊本偉人伝 Vol.24  ( 旅ムック93号掲載 )
こやま ひいで(ひでのしん)
小山秀 (秀之進)

幕末・明治の近代遺産に深く関わった日本における西洋建築の先駆者

ユネスコ世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」登録記念
小山秀(秀之進)生没年
1828(文政11年)月日不詳〜1898(明治31年)5月17日没(享年69才)

天草から開港間際の長崎へ国際港の礎を築いた小山兄弟

天草郡御領村(現・天草市五和町)に生まれた小山秀之進(後に秀(ひいで)と改名)。小山家は代々漁業や海運業を営み、銀主(読み方:ぎんし)(大地主、富豪※天草特有の名称)と言われるほど栄えていた。天草で盛んに行われていた木造造船業や干拓事業にも取り組み、秀も土木と船大工の腕を磨いた。
安政5年(1858)、西欧五カ国と修好通商条約が結ばれると、翌年、長崎は自由貿易港として開港。同時に大浦海岸一帯の埋め立て計画を立ち上がり、工事を請け負ったのが秀の実兄・北野織部。小山家でも、織部をバックアップするため長崎に「国民社・小山兄弟商会」を設立し、国際港・長崎の開発事業に参画した。
国民社・小山兄弟商会は、織部の実績により土木業界での地位を確立。秀も若手棟梁として才覚を現し、長崎港から見上げる長崎市南山手町に旧グラバー住宅(1863年)、旧オルト住宅(1865年)、旧リンガー住宅(1868年)の洋館、そして国内現存最古の教会・大浦天主堂 (1865年)と、これまで見たことも住んだこともない西洋建築に携わっていき、更に、石畳や倉庫など天草石を使った建築も多数請け負っていくのである。

後世に残る建築を手掛ける一方炭鉱開発で全財産を失う

江戸時代末期、西洋建築の技術など日本には導入されていない時代、秀はどのように建てていったのだろう。基になるのは外国人が書いた簡単な設計図だけ。遺品として残る旧オルト住宅の平面図には、ローマ数字のフィートやインチで記した寸法を秀が尺・寸に換算して書き込んでいる。それから想像を膨らませ、自分達が築いてきた技術と直結させ形にしていく…。緻密(読み方:ちみつ)な頭脳がなければ対応できなかっただろう。秀の頭脳を支えたのが、高い技術力を持つ天草出身の石工や大工達。優秀な技術集団と秀自身の豪放磊落(読み方:ごうほうらいらく)な性格あってこそ、施主である外国人とも臆せず渡り合えたのではなかろうか。
明治元年(1968)、居留地の建設ラッシュも一段落ついた秀は、トーマス・ブレーク・グラバーの誘いを受けて高島炭鉱(長崎県)の管理経営に乗り出した。46歳になる明治5年(1872)に島原藩士浅野家の娘・スヨと結婚。これまで金儲けのために邁進してきたが、今後は家族のために新しい事業を成功させたい。しかし、この想いは叶うことなく、高島炭鉱は国営化され撤退。次は端島炭坑(軍艦島/長崎県)に活路を見い出すが、台風が直撃し炭坑は水没。再建を図るが、莫大な借金を抱えることになり事業を断念。失意の果てに長崎を去った。

失意のはて生まれ故郷・天草へ 死の間際まで棟梁として活躍

没落した名家の長老に対して、地元の人達は冷たかった。しかし、明治16年(1883)、明治政府の殖産興業政策の一つである三角西港建設に声がかかる。オランダ人水理工師ローウェンホルスト・ムルドルの設計による石積み埠頭の全長は756メートル。秀が率いる天草の石工達は、切り出した石材を丹念に仕上げ、当時の日本では見られない曲線を多用した護岸を積み上げていった。明治30年(1897)には、天草郡大浦村(現・天草市有明町)に誕生する天草第三高等小学校(現在は廃校)の建設依頼が来る。69歳になる秀は、子ども達の学舎として西洋式木造二階建校舎に携わる。完成後、すがすがしい木の香りに包まれる新校舎を点検している途中に倒れ、天草の家で亡くなった。肺壊疽を患っていたそうだ。
のちに秀が携わった建築物で大浦天主堂が国宝に、三角西港・旧グラバー住宅・旧リンガー住宅・旧オルト住宅は国の重要文化財に指定された。また、平成27年7月に登録されたユネスコ世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」では、三角西港、高島炭坑・端島炭坑(軍艦島)・旧グラバー住宅が含まれている。
子孫には先祖代々の財産を残せなかったが、日本の近代化を支えた「世界遺産」を残した功績は高く評価されるべきである。


参考文献/海鳴りの果てに-天草海外発展史(前編)-(北野典夫著)

PAGETOP