シリーズ 熊本偉人伝 Vol.11  ( 旅ムック77号掲載 )
こいずみやぐも
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)

作品を通して明治の熊本を垣間見る。来熊120年のジャパノロジスト

小泉八雲生没年
1850年(嘉永3年)6月27日 〜 1904年(明治37年)9月26日

松江から近代化が進む熊本へ文句を言いつつも満喫

ギリシャで生まれ、アイルランドで幼少時代を過ごしたラフカディオ・ハーン。フランスやイギリスで青春時代を送り、20歳でアメリカへ渡ってからはジャーナリストとして北米の都市を点々としていた。そんなハーンが日本を訪れたのは明治23年(1890)、40歳の時。同僚であり、ジャーナリストとして尊敬するエリザベス・ビスランドから、「日本は美しく、人々は文明社会に汚されておらず、夢のような国であった」と聞かされたことがきっかけだった。同年4月4日、横浜港に着いたハーンは、アメリカで知り合った文部省の服部一三の斡旋で、島根の松江中学校の英語教師の職に就く。松江では士族小泉湊の娘・セツと結婚し、寺の住職から怪談話を聞いたり、セツに民話や伝説を調べてもらうなど、日本の神秘的な文化に触れていった。しかし、体調を崩し、扶養家族も増えたこともあり、今よりも高い給金が得られる高等中学校のポストを友人から知らされ、熊本への転任を決意する。
明治24年(1891)、ハーンが訪れた当時の熊本は、西南戦争後の復興を果たした頃。鉄道は熊本駅まで伸び、町はヨーロッパ風に近代化が進められていた。勤務する熊本第五高等中学校の赤煉瓦の校舎を見て「兵舎と同じ」と思い、「宗教的に見ておもしろくない土地」と友人に書き送ったという。熊本は松江に比べてはるかに都会ではあったが、ハーンが思い描いた日本からは遠く離れていたのだ。しかし、「熊本に失望した」と言いながらも、一方で都会ならではの快適な生活を満喫していた。松江時代、ハーンは日本食を好んでいたが、消化不良を起こして体調を崩す。洋食屋や洋酒屋などが揃う熊本に来てからは体重も増え、ゆで卵を2~3個とブランデーを飲んで学校に向かうのが日課になっていたという。健康を取り戻し、長男・一雄も誕生したハーンは、旺盛な創作意欲を持って文筆活動に励むことになる。

「日本の心」の理解者として多くの作品を残した熊本時代

五高での経験は、ハーンにとっても大きな収穫となった。九州・山口・四国から集まったエリートたちとのやり取りは、松江中学のあどけなさが残る学生たちとは比較にならない。人生観や歴史観、文明論を戦わせ、刺激を受け、自らの作品に反映させていった。執筆家として脂が乗った時期といえる。
ハーンの代表作で来日後第1作目となる「知られざる日本の面影」は松江時代を書いたものだが、熊本で執筆されている。また、熊本を舞台とした作品では、五高裏手にある小峰墓地で巡らせた思いを綴った「石仏」や長崎旅行の帰りに立ち寄った三角西港の宿屋浦島屋での出来事を綴った「夏の日の夢」、日清戦争時の本妙寺が登場する「願望成就」、五高生との交流や授業のやり取りを描いた「九州の学生とともに」、巡査殺しの重罪人が熊本に護送され、停車場(現上熊本駅)まで見物に行った「停車場で」などが「東の国から」や「心」、「日本雑記」に収録されている。
ハーンは、熊本を離れた翌年の明治28年(1895)に帰化し「小泉八雲」に改名。「熊本の3年間は、私の文学修行の中で最も意義ある3年間であった」と後に振り返っているように、熊本は「日本の心」を真に理解する文筆家としての再出発の地となった。

取材協力/小泉八雲旧居保存会会長 中村青史

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