明治・大正・昭和を通して、第一線で活躍した気鋭のジャーナリスト
徳富蘇峰生没年
文久3年1月25日(1863年3月14日)〜 昭和32年11月2日(1957年11月2日)
明治・大正・昭和を通して、第一線で活躍した気鋭のジャーナリスト
徳富蘇峰生没年
文久3年1月25日(1863年3月14日)〜 昭和32年11月2日(1957年11月2日)
黒船来航からはじまった幕末。その渦中にある文久3年(1863)、徳富蘇峰(本名:猪一郎)は、水俣の土豪・徳富一敬(かずたか)の長男として誕生。5歳違いの弟に、小説家の徳冨蘆花(ろか/本名:健次郎)がいる。 徳富家は、肥後国水俣の郷士で、代々総庄屋を務める家柄。父、一敬は「肥後にその人あり」と呼ばれた横井小楠の門下生であった。また、母・久子の実家である矢嶋家も上益城郡津森村杉堂の総庄屋。久子の姉妹には、熊本の女子教育の先覚者となった竹崎順子、女子学院の初代院長に就任した矢嶋楫子(かじこ)、小楠の妻となるつせ子がいる。また、蘇峰・蘆花の姉・初子は、熊本洋学校で日本で最初の男女共学での授業を受け、姪の久布白落実(くぶしろおちみ)とともに廃娼(はいしょう)運動に携わった。一本気な熊本男児の気質を「肥後もっこす」と言うが、対して熱く頑なな気質の女性を「肥後の猛婦(もうふ)」と呼ばれ、徳富家に関わる女性たちの多くを示している。そういった環境の中で、後に蘇峰が提唱する「自由主義」の精神が育まれていった。 幼少期を水俣で過ごした蘇峰は、明治3年(1870)、父の熊本藩庁勤務にともない熊本の大江に移り住んだ。父の勧めもあり当時設立されたばかりの熊本洋学校に入学。洋学校には15歳前後の秀才が集められたが、10歳で入学が認められた蘇峰は抜きんでた才能を持っていたのだろう。しかし、アメリカ人教師L・Lジェーンズによる英語での授業に、若すぎるという理由で退学。その2年後には再入学を果たしている。 しかし再入学後間もなく、ジェーンズに感化された青年たちによる、熊本市花岡山での集会に参加。キリスト教と国家との関係を意識した「奉教趣意書」に誓約する。明治6年(1973)に禁教が解かれていたが、青年たちの行動は激しく弾圧され、洋学校は閉鎖。青年たちの多くは新設間もない京都の同志社英学校に転校し、「熊本バンド」と呼ばれるようになった。13歳であった蘇峰も先輩たちと行動をともにするが、明治13年(1880)、卒業直前に退学している。 しかし、蘇峰の思想の根底には、その時に出会った同志社を創設した新島襄(じょう)の教えが大きく影響している。蘇峰は新島を生涯の師とし、新島も蘇峰に遺言を託すなど、師弟の敬愛関係は晩年まで変わることがなかった。現在、記念館として公開される旧居跡の庭には、新島がアメリカから取り寄せた種を、蘇峰に送ったとされるカタルパの木が大きな幹を広げている。毎年5月頃には白い花を咲かせ、師弟愛の象徴として受け継がれている。
同志社を退学した蘇峰は、いったん上京し、その後、幼少期を過ごした大江の家に戻っている。ここで、明治15年(1882)、19歳で自由主義・民主政治を旗印に挙げた「大江義塾(おおえぎじゅく)」を開き、洋学校、同志社で学んだ経験をもとに史学、文章学、経済学を教え、自らも学んでいった。
蘇峰の名を知らしめたのが、明治19年(1886)に記した「将来之日本」だ。ジェームズ・ミルやハーバート・スペンサーといったイギリス資本主義のもとに生まれた自由主義者、そして横井小楠の思想を基に、24歳の多感な見識を述べたこの本は当時の青年の心を捉え大ベストセラーとなる。この成功を機に蘇峰は塾をたたみ、家族と上京する。
この本で記されるのは、これからの日本について。特に、明治政府の国策の基本であった富国強兵策に対しては「富国と強兵は両立せず、富国こそが平和につながる」と主張。徳川時代の封建的遺習が残ることに対しても、維新=改革を徹底すべきであると記し、このような世の中を実現するためには「普通教育を盛んにするより外なし」と述べている。そして求める人間像として、困難に直面しても「自ら立ち、自ら成すことの出来る人にして、言わば己が腕を頼む人是なり」とし、一人一人が自由な生き方・考え方をしなければ、自分の足で立つことは出来ないと、現代にも通じるメッセージで締めくくられている。
上京後、「民友社」を結成した蘇峰は、明治20年(1887)に月刊誌「国民之友」を、明治23年(1890)に念願の「国民新聞」を創刊する。弟・蘆花も社員として兄に協力し、海外ニュースの翻訳などに務めた。「国民新聞」に掲載された「不如帰(ほととぎす)」が出世作となり、小説家として知られるようになった。
雑誌、新聞を通して、政治、経済、外交などの時事問題を取り上げる一方で、蘇峰が力を入れたのが文芸欄を設け、読者の支持を得た。森鴎外や坪内逍遙(つぼうちしょうよう)、幸田露伴などが参加した「文学会」を開催し、政治や社会の改良と同時に、文学への改良にも情熱を注いだ。
中央政権に対して民主政治を主張する「国民新聞」は、何度も発行停止となりながらも全国有数の大新聞に育っていく。しかし、平民主義の立場から政治問題を論じていた蘇峰だったが、日清戦争後の「三国干渉」を契機に国権論者に転じ、政治の世界にも足を踏み入れていく。そのような経緯から、「国民新聞」は「政府の御用新聞」と批判されるようになり、明治38年(1905)の日比谷焼き打ち事件をはじめ、度々、暴徒による襲撃を受けることになる。さらに、大正12年(1923)の関東大震災でも被害を被り、財政立て直しのために実業家の根津嘉一郎に出資を願い出るも、共同経営はうまくいかず、蘇峰は自らが立ち上げた「国民新聞」を去ることとなった。
蘇峰の思想の転換は、兄弟の溝も深めることとなる。断絶状態は昭和2年(1927)まで続くが、蘆花の臨終の際に再会して和解。ただ、不和となった後も、新聞社が焼き打ちに遭うなど蘇峰が困難な直面に立った時には、作品を起稿するなど、兄弟の絆を示す逸話が残っている。
ジャーナリストとして一時代を築いた蘇峰だが、全100巻となる「近世日本国民史」を記したことで歴史家としての功績も残している。大正7年(1918)から昭和27年(1952)まで、35年という年月をかけて執筆した同書は、膨大な資料をもとに、織田信長の時代から西南戦争までを記し、客観的、中立の立場で書かれた歴史書としては日本で初めての試みだったという。明治の偉人たちと直接関わり、ジャーナリストとして、政治家として培われた視点は、遠藤周作や松本清張といった作家たちからも親しまれ、影響を与えている。
24歳で上京し、以来東京を拠点に活動した蘇峰だが、大正11年(1922)に熊本に帰省した際には、球磨川下りや阿蘇登山を楽しんだという。阿蘇を訪れた際には、地元の人から「遠見ヶ鼻」に雅な名前を付けて欲しいという依頼を受けている。それが、阿蘇五岳を一望する「大観峰」である。
蘇峰は、昭和32年(1957年)11月2日、晩年を過ごした熱海市の晩晴草堂(ばんせいそうどう)で逝去。報道界、言論界をリードし、数多くの子弟の養育に情熱を注いだ94年の生涯を静に閉じた。
取材協力:徳富記念園 館長
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