時代の最先端を切り開き男女共同、参画社会の掟を築いた四賢婦人
熊本偉人伝 矢嶋家の女性たち
熊本のハンサムウーマン
時代の最先端を切り開き男女共同、参画社会の掟を築いた四賢婦人
熊本偉人伝 矢嶋家の女性たち
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津森小学校の隣に佇む四賢婦人記念館。ここは江戸時代後期、益城町杉堂にあった惣庄屋・矢嶋忠左衛門直明の旧家屋の一部を移築したもので、この家で生まれた4人の姉妹こそが、後に「熊本の猛婦」と称された「四賢婦人」である。
熊本女学校を設立した竹崎順子(三女)、徳富蘇峰・蘆花兄弟の母である久子(四女)、横井小楠を支えた妻・横井つせ子(五女)、そして女子の地位向上の先覚者として知られる矢嶋楫子(六女)。姉妹は、NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公、新島八重・襄夫妻との親交もあり、後の同志社大学総長をはじめ、多くの重要人物を輩出した。江戸から明治へと向かう動乱の時代、強い意志を持って使命を遂行した姉妹の足跡を辿ってみたい。
時は江戸時代末期。姉妹の父・矢嶋直明は、益城町一帯を治める惣庄屋(=肥後藩の地方役人)であった。そしてその妻・鶴子もまた、三村を束ねる庄屋の娘であり、聡明な賢婦人であったと伝えられる。2男7女をもうけ、子どもたちの教育に大変な力を注いだ鶴子は、自筆の百人一首、古今和歌集、三十六歌仙などを子どもたちに与え、手ずから教えていた。これは「女子に教育は不要」という当時の風潮から大きくかけ離れた。このような母の熱意に満ちた家庭教育の賜物が、後に大きな業績を上げた四賢婦人の原動力となったのは間違いない。
また姉妹の父、忠左衛門直明は、名惣庄屋として地域の人々に親しまれた人物であった。当時の惣庄屋は、各地方(郷)の長として配下の庄屋を統べ、官民の橋渡しをする重要なポジションである。郷内の租税・法刑・教育・土木など一切を管理した忠左衛門直明も、相当の教養を身につけていたと思われる。女性が抑圧される時代にあって、熱心に娘たちを教育する妻を咎めることなく、温かく見守った父の姿勢もまた、子女の教育の一助となったとみて間違いないだろう。
矢嶋家の女性たちについて語る際、欠かせないのが、彼女らの思想に影響を及ぼした横井小楠の存在である。
実学による新しい国家の姿を構想した小楠は、私塾を開き多くの門弟を輩出。居を構えた沼山津(熊本市東区)の四時軒には、坂本龍馬や井上毅など、明治維新の立役者や明治政府の中枢の人物が多く訪れている。その実力は全国に知れ渡り、越前福井藩に招聘され政治顧問としても活躍した。
そんな小楠と矢嶋家の関係は非常に深く、姉妹の兄・源助(直方)は小楠の高弟であった。また、五女・つせ子が小楠に嫁いだほか、矢嶋家の女性たちは次々と小楠の門弟たちに嫁した。両家の結びつきは、当時の肥後において、最先端の知的な人脈を形作っていったという。
開校当時より、熊本女学校(現在は合併され、共学の開新高等学校)の校母として慕われ続ける三女・順子。順子は16歳の時、横井小楠の門弟である竹崎律次郎に嫁いだ。後に横島の干拓事業で名を上げた律次郎だが結婚当初は相場で失敗を繰り返し、順子は懸命に働いて夫を支えたという。
そんな順子は律次郎の死後、63歳で妹・久子より託された熊本女学校の校長に就任。女子教育の先駆者として81歳の生涯を生き抜いた。
やはり横井小楠の門弟として学び、肥後藩改革の中心人物となった徳富一敬に嫁いだのが、四女・久子である。過労が原因で、眼の疾患に悩まされていた久子は、跡継ぎである男子を産めなかったことから離縁を迫られるなど、苦しい結婚生活を送っていた。しかし、結婚14年目にして待望の男の子を出産。この男児が、後に近代日本の言論人であり、キリスト教結盟「熊本バンド」に参加した徳富蘇峰であった。その後、文豪として活躍する蘇峰の弟・蘆花を生み、日本の評論・文学の基礎を築いた兄弟を育てあげた。
また久子は、女子教育のための学校設立案を提唱。熊本女学校を創案したほか、妹・楫子の日本キリスト教婦人矯風会活動を積極的に支え、廃娼・禁酒運動を展開した。
明治維新の影の立役者である横井小楠に嫁いだのが、五女・つせ子。後妻として横井家に入ったつせ子は、姑、使用人との関係に苦労しながらも、嫁入りした翌年に長男・時雄、5年後には長女・みや子を設けた。その後、小楠は明治政府に招命され京都へ赴任するが、志半ばで暗殺されてしまう。39歳で未亡人となり、途方に暮れたつせ子だったが、政府からの慰労金を子どもの教育につぎ込み、小楠の遺志を継がせることに人生を賭した。
その甲斐あって、時雄は同志社大学の第3代社長(後に総長と改称)に、またみや子は第8代の総長夫人になるなど、その子孫は教育の第一線で活躍した。つせ子に限らず、志半ばで倒れた小楠の思想を実践し、世に広めたのは矢嶋家の人々であった。
矢嶋家の姉妹の中で、もっとも著名な六女・楫子。禁酒・廃娼・一夫一妻制を唱える東京婦人矯風会(後の日本キリスト教婦人矯風会)を創立し、ワシントン軍縮会議に出席、1万人の署名を手渡すなど、国際的な女性の解放活動を行った。そんな楫子の人生もまた平坦なものではなく、苦難と迷いの中から自らの生きる道を模索したものであった。 矢嶋家の六女として生まれた楫子(本名・かつ子)は、横井小楠門弟の林七郎の三番目の妻となったが、訳あって8年後に離婚。兄・直方や姉妹の住まいを点々としながら小学校教諭の職を得た楫子は、女学校経営に係わり、多様な角度から新しい女子教育の道を模索した。中でも、明治23年に誕生した「女子学院」の初代院長に就任し、当時としては非常に斬新な「校則のない学校」を作ったことは広く知られている。
そのような女子教育と並んで楫子が力を注いだのが、先述した「日本キリスト教婦人矯風会」の活動である。自身や姉の結婚生活から得た教訓に基づき、熱心に女性救済活動を行った楫子は、93歳で亡くなるまで、一途に女性の地位向上を目指した。
「熊本の猛婦」という別名から、激しい気性を持つと誤解されることも多い四賢婦人。しかし、その素顔は非常に穏やかで、慈愛に満ちたものだったと伝えられている。女性の地位が著しく低かった当時、姉妹が行った活動は〝猛婦〟という印象を残すほど先進的だったということなのだろう。近代日本の男女参画社会の礎を築いた4人の女性の遺志は、女性が広く社会で活躍する今日の日本にも脈々と受け継がれている。
取材協力 益城町教育委員会生涯学習課
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