シリーズ 熊本偉人伝 Vol.27  ( 旅ムック97号掲載 )
かいそううん
甲斐 宗運【後編】

戦国時代の無敗武将
阿蘇家の勢力拡大に尽力した御船城城主

甲斐宗運生没年
生誕年月日不詳〜1584年(天正12年)7月5日没(享年70才前後)

阿蘇家の忠義の臣

肥後の北東部を治めていた阿蘇家。戦国時代に最盛期を築くが、その支えとなったのが生涯60戦無敗、負けなしの武将ともいわれた甲斐宗運(本名:親直)である。日向国鞍岡(宮崎)の領主甲斐親宣の長男として生まれた宗運は、20代の時に当時御船(現:上益城郡御船町)を治めていた御船房行(行房)が阿蘇家に謀反を企てたため討伐の侍大将に任じられて見事戦いに勝利。その功績を認められた宗運は生涯御船城を本拠地とした。激動の戦国時代、九州の勢力図が大きく動く中、宗運はあらゆる手を使い主家である阿蘇家の存続に力を尽くすのである。

短刀「茶臼剣」と身内の粛清

ある日、隈庄城主(現:熊本市南区城南)で娘婿でもある甲斐守昌が妻と共に宗運の元に訪れた時のこと。飼い猫が掛けてあった短刀を落としてしまい、そばにあった茶臼に9センチほど突き刺さる出来事があった。その切れ味を目の当たりにした守昌は是非ともこの短刀が欲しいと宗運に嘆願するが「この短刀は父が大宮司様(阿蘇氏)から拝領したものなので渡す事は出来ない。だが、自分の死後に形見分けとして差し上げよう。」と断られるのである。
結局、宗運の娘でもある守昌の妻が密かに持ち帰り夫に渡したと伝わるが、守昌は怒った宗運がきっと取り返しに来るだろうと思い守備を固めたのが隈庄合戦の始まりとも言われている。その後守昌は阿蘇家に離反する動きを見せたため、当主の阿蘇惟将は宗運に出撃命令を下し、守昌は合戦に敗北する。
また、同じ甲斐一族の出である黒仁田氏も阿蘇家に叛いたとして、宗運は一計を案じ黒仁田一族を川遊びに招待し酒宴を開く。夜、頃合いを見計らって宗運は黒仁田氏を討つと、法螺貝を吹いて家臣達に合図を送り、黒仁田氏の家臣達をも主同様に粛清。身内に対して一見苛烈とも思える行動だが、周囲が敵国に下る不安定な情勢の中、阿蘇家を守るためにとった忠義故の行動であった。

盟友と遭い対した響野原合戦

天正9年(1581)12月、豊野(現:宇城市豊野町)で宗運と八代より出兵してきた相良義陽がこの地で激突した。宗運と義陽は20歳以上も歳が離れていたが、お互い不可侵条約を交わすなど友好な間柄。しかし薩摩の島津氏に人質を取られた義陽は阿蘇家征伐の先鋒を命じられ、やむをえず宗運と交わした不可侵条約の誓紙を破り捨て兵を率いて響野原に布陣したのである。
盟友であった宗運と義陽。そんな二人が戦った響野原は峠を下ったところにあり、合戦には不利な地形であることから、義陽はわざと宗運に討たれるために布陣したのではないかと言われている。宗運方は鉄砲を撃ちながら奇襲を仕掛け、相良軍は壊滅し義陽は床机に座ったまま討ち取られた。義陽の討死を聞いた宗運は盟友の死に涙し、「義陽を討ったのは味方を討ったも同然。これからは島津の勢力も強くなり阿蘇家の未来も長くないだろう」と嘆く。合戦後、宗運は塚を建て義陽の死を悼み、現在その塚は相良塚(上益城郡御船町)として宗運の哀悼の意を今に伝える。

毒殺か? 宗運の死の謎と亡き後の肥後国

そんな阿蘇家存続のためのなりふり構わない宗運の行動を恨みに思う人物がいた。長男宗立の妻である。妻は黒仁田氏の出であり、宗運が黒仁田氏を誅殺する際、実父を殺す事を恨みに思わないよう誓紙に書かされたが、ずっと夫人はその事を恨んでいた。宗運の孫に当たる自身の娘を脅し宗運を殺すよう話を持ち掛け、母の言うことを断れない娘は宗運を益城(上益城郡益城町)の温泉に招待しお茶に毒を盛り殺害。これが宗運の最後とも、実際は病死だとも言われ真相は不明である。
天正15年(1587)、宗運亡きあと島津氏が本格的に阿蘇家領内に侵攻してきたが、豊臣秀吉の九州入りにより九州は平定、肥後は佐々成政が入国した。だが成政は「肥後は3年間検地してはならない」と言う秀吉の言葉を無視して検地を行い、それに反発した国衆は一揆を起こす。一揆は次第に成政の手に負えなくなり近隣の諸大名を巻き込み大規模なものに発展した。
そして宗運の長男宗立もこの一揆に参戦。返り討ちに遭い、手足に重傷を負って嘉島上六嘉(現:上益城郡嘉島町)まで撤退を余儀なくされるが、村の住民から手厚い看護を受ける。感動した宗立は「自分の死後、手足の不自由な人々のために役に立ちたい」と言い残して亡くなったと言われ、その後建てられた足手荒神(甲斐神社)は甲斐宗立と宗運を祀り現在でも手足の神様として親しまれている。
その後、成政は秀吉より一揆の責任を問われ切腹。10年以上戦が続き荒廃した肥後の地に加藤清正がやって来たのは天正16年(1588)、清正27歳のことであった。

取材協力・文/小林かなこ氏
参考文献/甲斐党戦記(荒木栄司著)、勇將甲斐宗運(高野白哀著)、九州戦国の武将たち(吉永正春著)、御船高校八十年のあゆみ(御船高校著)

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